三朝北盟會編炎興下帙 紹興三十一年 1161年

采石の戦いをめぐる異論(趙甡之による虞允文批判)

  • 『中興遺史』の著者趙甡之は、虞允文の采石戦勝報告を子細に検討し、誇張が多いと批判した。馬家渡の役での過去の教訓と比較しつつ、海鰍船わずか十艘の戦果としては報告の被害規模(金兵の遺体二千七百余、射殺万単位)が実情と合わないと指摘し、虞允文が功績を誇張して宰相の座を望んでいるのではないかと疑いを述べた。
  • また、実際に采石を訪ねて住民に聞き取った結果として、報告にある塹壕・堤防の建設規模も、短時間で成し得る工事量とは考えにくいとし、諸軍の戦果報告全般に誇張が多い実情を指摘した。もっとも、統制張振・王琪・時俊ら実際に戦った将兵の昇進や、戦死した民兵杭文貴の顕彰など、具体的な論功行賞も記録されている。

晁公忞『金人敗盟記』による采石戦の詳細

  • 完顔亮は自ら金の甲冑を纏って壇上に立ち、決死隊を鼓舞して渡江を敢行させた。虞允文は統制官らと共に中流での迎撃を主張し、海鰍船・車船を用いて金船に体当たり攻撃を仕掛け、金船の多くを撃沈させた。金の船は急遽建造した平底船で江の流れに不慣れであったため、大敗を喫した。完顔亮は退却した兵を激怒して処刑したという。

李宝への論功行賞

  • 陳家島での金水軍撃滅の功により、李宝は静海軍節度使・京東東路招討使・沿海制置使に任じられ、高宗は「李宝が第一の功」と称賛し、金の御旗・宝物などを下賜した。

完顔亮の敗走と瓜州方面の攻防

  • 采石での敗北により、完顔亮は和州から軍を淮東方面(揚州・瓜州)へ転じた。虞允文はさらなる追撃戦を報告し、楊林河口を封鎖して金船百五十余隻を焼き払う戦果を上げたとした(これについても趙甡之は数値の誇張を疑問視している)。
  • 虞允文は李顕忠と合流して防備を固め、その後鎮江へ赴いて瓜州方面の防衛を統括、劉錡と対面した(病篤い劉錡が虞允文の功を称え自らを恥じたという逸話が記される)。楊存中も鎮江の防備に加わり、粗末な「紙の船」に見える宋の軍船が金軍を牽制する様子や、完顔亮が渡江策を巡って部下を叱責する場面も伝えられる。

李顕忠、采石で追撃

  • 王権に代わり建康駐劄都統制となった李顕忠は采石に至り、西岸に残った金の船を焼き払い、金兵を敗走させた。

各地の回復戦

  • 李貴が順昌府を回復し、金の知隷州蕭寛を退けた。
  • 十六日、金軍が茨湖(漢水沿い)を船筏で攻めたが、鄂州前軍の史俊らの奮戦により撃退された。

京西方面のその後の戦況(趙晟の記録より)

  • 京西統制趙晟の記録には、この後の茨湖・鄧州・汝州方面での戦闘、金主完顔亮死後の金軍撤退に伴う各地の攻防、隆興元年以降の王宣・趙晟らによる襄陽・汝州方面での継続的な防衛戦の様子が詳しく記される。乾道年間に唐・鄧の地が金に割譲された後も、王宣らは襄陽防衛の要地としての価値を説き続けたという。