帰正者による対金攻撃策の上奏
- 元祐年間の進士で金支配地から帰還した崔陟孫・梁叟らが両府に劄子を上げ、金への攻撃を進言した。攻めるべき理由として、金主完顔亮による有能な功臣の粛清、民心の離反、宋の軍備充実(和議後二十余年の訓練の成果)を挙げた。
- 攻めざるを得ない理由として、天の時(金の混乱)を逃せば好機を失うこと、民心が離反したまま放置すれば失望に転じること、群盗など予期せぬ勢力が台頭する恐れを挙げた。
- 具体策として、淮甸・襄漢の正面は守りを固めつつ、奇兵で燕・晋方面へ進み金の退路を断ち、契丹・渤海の民に共に金を滅ぼし旧国を復興するよう呼びかける策を上策とした。
- あわせて金国内の詳細な情報(有力な将帥がすでに粛清され尽くしたこと、軍馬の払底、水軍の不備、賦役の過酷さによる民の困窮、燕京・京師の造営工事の負担、完顔亮の専横ぶりなど)を具体的に報告し、宋への民心の帰趨を強調した。
八月一日辛丑 魏勝、海州を回復
王秬の罷免
- 淮南転運副使王秬が、独断で淮南の民兵を諸将に分属させるなど専断な振る舞いが多く、諸将との私的な結託や誇大な武功の申請が問題視され、宮観に落とされて罷免された。
八月八日戊申 劉錡、浙西江淮制置使に
- 用兵が現実味を帯びる中、名声のあった劉錡が浙西江淮制置使に任じられ、あらゆる上奏が許可されるなど厚遇された。
八月十日庚戌 徐嚞・張掄の帰還
八月十一日辛亥 王継先の失脚
- 殿中侍御史杜莘老が、医師出身で秦檜・王氏(顕仁皇后)との縁故により長年寵愛を受けてきた王継先の悪行十事を弾劾した。都城内での不法な邸宅拡張・運河埋立、良家の女性の強奪、賄賂による官職斡旋・訴訟操作、私兵の養成、寺院財産の横領、湖州での不審な蓄財行動などが列挙された。
- あわせて『遺史』は、王継先が秦檜・張去為とともに高宗の側近として長らく権勢を振るったこと、劉錡らの主戦論に対して密かに和議継続を高宗に説き、劉錡を斬るべきだと示唆したことが高宗の逆鱗に触れ、杜莘老の弾劾を機に失脚に至った経緯を記す。
- 結果、王継先は致仕の上、福建路への居住を命じられ、子孫は官職を剥奪、邸宅・財産は没収された。
八月十三日癸丑 完顔亮、母を殺害
- 金主完顔亮は、出兵に反対する母を「梁宋国王の側室に過ぎぬ」と罵り、自害を強要して死に至らしめた。