三朝北盟會編炎興下帙 紹興三十一年 1161年

八月十四日甲寅 李宝の海上進撃と東海県の降伏

  • 李宝が水軍を率いて海路より東海県に至り、金の偽知県髙敞・前知県支邦榮が投降した。

八月十五日乙卯 完顔亮、韓汝嘉を殺し南侵を開始

  • 完顔亮は、講和を諫めた諫議大夫韓汝嘉を「宋に内通した」として殺害し、正式に南侵の兵を起こした。
  • 劉錡は浙西江淮制置使として揚州に軍を進めた。久しく廃れていた軍礼を再興し、大将旗鼓を掲げて威容を整えた行軍は人々を驚嘆させたという(『遺史』)。

八月下旬 防備の再編と情報収集

  • 十七日、田師中が朝廷に召還された。二十三日、張燾が致仕を取り消され建康府知事に起用された。二十八日、魏勝が海州知事に任じられた。
  • 淮東転運使楊抗らが金軍の動員状況(各路からの兵力集結、契丹・漢軍の徴発、行軍日程)を詳しく探報した。完顔亮の偽の詔(「五百万の兵をもって西夏を降し九月下旬に帰還する」との誇大な布告)も伝わり、『敗盟記』はその誇大さと完顔亮の常軌を逸した詩作を引いて、この誇張が自滅の兆しであると評した。

九月 各方面での軍事行動

  • 八日、呉拱が鄂州駐劄御前都統制となり襄陽方面を統括、襄陽の要害としての重要性を朝廷に上申した(『遺史』はその守備方針を退嬰的と批判)。
  • 劉錡は病をおして揚州から進軍を続けた。十七日、楊抗が部将劉汜(劉錡の甥)を推挙した。十八日、呉璘が鳳翔・鳳州・渭河南・宝鶏県の金の陣地を攻撃した。
  • 二十四日、義兵を率いた夏俊が泗州を奇襲・占領し、金の知泗州富察図們らを敗走させた。また金の間諜であった劉蘊古が宋に投降を装いつつ密偵を務めていた実態が発覚した。
  • 権知光化軍張超が、光化軍城内に侵入した金の騎兵七百と激戦の末これを撃退した(荆襄方面で最初の戦功とされる)。
  • 二十五日、呉璘が秦州を回復。二十六日、金軍が信陽軍を攻めたが成閔配下の趙樽らが防いだ。呉璘はまた隴州方山源を回復した。
  • 二十七日、呉璘が洮州を回復。三十日には隴州も攻略し、金の糧秣を焼き払うなど各方面で戦果を挙げた。