三朝北盟會編炎興下帙 紹興三十一年 1161年

六月初め 服喪儀礼の継続と金の背盟の兆し

  • 六月一日以降も欽宗の服喪儀礼が続けられた。二日、崩御を悼む詔が全国に発せられ、大赦が行われた。
  • 七日、成閔が荆襄への出戍を命じられ、十日には汪澈が荆襄湖北路宣諭使に任じられるなど、金の背盟に備えた人事が相次いだ。

六月四日乙巳 完顔亮の背盟と南侵開始

  • 金主完顔亮が母の諫言を斥けて殺害し、盟約を破って諸軍を四方に分けて侵攻させた。宋は呉璘(興州)・姚仲(梁州)・王彦(洋州)・呉拱(襄州)・李道(荆州)・田師中(鄂州)・戚方(江州)・李顕忠(池州)・王権(昇州)・劉錡(潤州)ら諸将を各地に配置して防備を固めた。

六月中旬~下旬 人事と対応

  • 十六日、劉錡を淮南浙西江東西路制置使兼招討使とするなど、防衛体制を再編する人事が発令された。
  • 二十三日、欽宗の廟号・諡号が議定され、「恭文順徳仁孝皇帝」「欽宗」と定められた。
  • 二十四日、仙韶院の女楽二百余人が放たれた。金が女楽を要求するとの噂を憂慮したものという。同日、同知樞密院事周麟之が、金への使者派遣を固辞したことを理由に罷免された。
  • 二十五日、金の無礼な要求への懸念から、淮南諸州郡に対し治所の移転・清野(焦土作戦の準備)が許可された。
  • 二十七日、徐嚞・張掄が金への稱賀使に任じられた。周麟之罷免後、劉岑に代役を打診したが固辞され、代わって両名が選ばれた経緯が記される。

七月 禁令と処罰、そして金の軍事的威嚇

  • 五日、緊縮政策への浮言(デマ)流布を禁じる詔が発せられた。七日、帯御器械劉炎が朝廷を誹謗した廉で左遷された。
  • 十一日、欽宗の諡号が国壇に告げられた。知濠州劉光時が、金への警戒から独断で治所を移し民を混乱させたとして降格された。
  • 十六日、成閔が鄂州に到着したが、軍中に流言が広まり動揺が生じた(成閔が部将から賄賂を受けて人事を左右した逸話も付す)。
  • 十九日、周麟之が使者派遣を辞退したことを理由にさらに左遷された。
  • 二十一日、盱眙軍にて、金の使者韓汝嘉が徐嚞・張掄に対し、完顔亮が「蒙古討伐」を名目に南下すると称し、宋の使者の受け入れを九月まで延期する旨を宣告した。『遺史』は、これが実際には南侵準備を隠すための欺瞞であったとし、韓汝嘉の慌ただしい態度や、後に金が接伴使派遣を撤回して国境防備を厳にした経緯を伝える。