五月十九日辛卯 金使の来訪と欽宗崩御の報
- 金の賀生辰使として虎衛上将軍髙景山・刑部侍郎王全が来訪し、国書を奉じた。王全は殿上で、金主完顔亮が即位当初から宗室待遇や帝号増額の要求を検討していたこと、歳幣負担への配慮、江水を境界とする案、河南府龍門への行幸予定などを長々と伝え、あわせて欽宗(淵聖皇帝)の崩御を告げた。
- 『晁公忞金人敗盟記』によれば、副使髙景山は態度が不遜で、欽宗崩御を伝える際も言葉遣いが粗野であったといい、高宗はこれを聞いて号泣し禁中に戻った。宰執陳康伯らはこれを機に金の背盟を警戒し、軍馬調発と江淮防備を議した。
- 『趙甡之中興遺史』は、王全一行が入境以来横暴な振る舞いを重ね、途上で弓矢を放つなど不穏な行動があったと伝える。また、かつて金の動静を詳しく上書して秦檜の怒りを買い流罪となった梁勲が、秦檜の死後もその忠言が生かされなかったことを人々が惜しんだという逸話を付す。
五月二十日~二十二日 服喪の手続きと欽宗の生涯
- 二十日、二十一日と聖節(天寧節)の祝賀儀礼が相次いで中止された。二十二日、正式に欽宗崩御の報が伝えられ、朝廷は服喪の儀に入った。
- 欽宗(諱桓)は徽宗の長子で、元符三年生まれ。皇太子に立てられた経緯、宣和七年の徽宗譲位による即位、靖康元年の金軍侵攻による開封陥落、以後三十五年に及ぶ抑留生活が略述される。即位の経緯については、徽宗が病中に禅位を決断し、太子が固辞するも押し切られて即位したという当時の混乱した様子も記される。
五月二十三日~二十八日 服喪の儀礼と諡号・人事
- 欽宗の霊を安んずる几筵の設置、宰執・百官による服喪の礼、金使の朝辞などが順次執り行われた。
- 二十五日、少保・利州東路御前都統制の呉璘が四川制置使に任じられた。
- 侍御史汪澈は、和議に安住して軍備が緩んでいる現状を批判し、江上への軍配置、荆襄防備の強化、淮甸への派兵、海防強化などを説く上疏を行い、施策の多くが採用された。