十月十八日丙戌 万俟卨『皇太后回鑾事実』の上進
- 尚書右僕射万俟卨が『皇太后回鑾事実』十冊を編纂して朝廷に上進した。序文では、高宗が即位以来、韋太后(宣和皇后)の帰還を願い続け、十六年にわたる交渉の末にその帰還を実現させた孝心を称え、建炎元年の迎請開始から紹興二十六年の還御までの経緯を年月順に編纂した旨を述べる。
迎請の経緯(建炎元年~紹興八年)
- 建炎元年の即位以来、宣和皇后(後の皇太后)の消息を求める使者が絶えず遣わされ、紹興七年には宣和皇后への尊号「皇太后」が定められた。
- 紹興八年、秦檜が主導する形で金との和議交渉が本格化し、王倫らが交渉にあたった。趙鼎や劉大中は和議を進めつつも軍備を怠らぬよう諫めたが、高宗と秦檜は太后の帰還を最優先とし、金使烏陵思謀らを厚遇して交渉を進めた。
慈寧宮の造営と皇太后冊立の儀
- 皇太后を迎えるための宮殿として慈寧宮の造営が定められ、冊文・尊号の授与、宰臣の賀表などの儀礼が整えられた。
皇太后帰還の実現
- 何鋳・曹勲が大金報謝使として派遣され、金主に太后の帰還を強く要請した結果、金は太后を送還することを認めた。魏良臣が接伴使として迎えに遣わされ、朝廷は盛大な出迎えの儀を整えた。
- 皇太后が臨平鎮に至ると、高宗自ら出迎え、母子の再会に群臣・軍民が涙し歓呼した。皇太后はその後慈寧宮に入り、朝廷は盛大な賀表を奉った。
頌詩の募集と吴芾の頌
- 皇太后帰還の慶事を記念して詞臣に頌詩の作成を命じたところ、応募した頌賦は四百篇近くに及び、その中で大理正吴芾の頌が最も優れているとされ、高宗はこれに官一等を加える恩典を与えた。頌は、高宗の孝心が天を動かし、金の悔悟によって太后の帰還が実現したことを寿ぐ内容である。