七月 張邵の死と行実
- 礼部尚書・奉使金国待制の張邵が没し、その行実(伝記)が記された。
建炎初年の上封事――建康を都とすべしとの献策
- 建炎二年、張邵は上封事を奉り、国家の大計を論じた。中原の形勢は今なお金に利があり争い難いが、東南の形勢――特に建康――は龍盤虎踞の要害であり、漕運・防衛の面で優れるとして、杭州(銭塘)への遷都に反対し、建康を拠点として江北の要衝(寿春・濡須など)に城塞を築き守りを固めるべきだと説いた。
- 漢の高祖・光武帝・劉裕らが関中・河北・江東の地の利を得て中興を果たした故事を引き、江北の防衛線を固めた上で機を見て中原回復を図るべきであり、いたずらに杭州に偏った守りを敷けば、金に東南放棄と侮られ、かえって危険であると論じた。
使者としての金への赴任と抑留
- 建炎年間、金軍が南下した際、朝廷は和議のための使者を求めたが応じる者が無く、張邵が自ら志願して奉使大金軍前使に任じられた。楚州から金軍陣中に赴く途上、金将達蘭のもとで、部下の讒言により謀反の疑いをかけられたが、事実無根と判明し赦された。
- 後に金将劉豫(偽斉)のもとへ送られ、臣従を拒んで半年間監禁され、さらに金へ送還されて燕山に抑留された。抑留中、達蘭(後の元帥魯国王)に長文の書簡を送り、宋を攻めることの得失を説き、和議の維持と兵の休止を訴えた。
- その後さらに北方の平・欒・興中・義州・中京・会寧などへ次々と流され、抑留は十五年に及んだ。抑留中は儒学を講じて生計を立て、易を講義するなどして過ごした。
紹興十三年の帰還とその後
- 紹興十三年、洪皓・朱弁とともに帰国を許され、道中の唱和詩を『輶軒唱和集』としてまとめた。帰国後、朝廷に対し「主憂臣辱」を説き、抑留中に死んだ司馬朴・陳過庭・聶昌・滕茂実・崔縦・魏行可ら忠節の士を顕彰するよう上奏した。特に司馬朴の节操と陳過庭の壮絶な最期の逸話を詳しく述べ、崔縦の遺骸を持ち帰った顛末も記した。
- この上奏は当時和議を推し進めていた秦檜らの意に反し忤られたが、後年、これらの忠臣の顕彰が実現し、張邵の功績とされた。