三朝北盟會編炎興下帙 紹興二十六年 1156年
十月二十九日丁酉 張浚、永州居住を命じられる
- 母の喪に服していた張浚は、星変に伴う直言を求める詔に応じ、金との和議に安住せず武備を怠らぬよう説く上奏を行った。商湯・周の太王・文王、越の勾践、漢の高祖・文帝、唐の太宗らが和と戦を使い分けて国を興した故事を挙げる一方、後晋が桑維翰の和議路線に安住して滅んだ例を引き、和議に安んじて武備を廃した秦檜路線の危うさを厳しく批判した。
- この上奏は宰執の沈該・万俟卨・湯思退らの激しい怒りを買い、上奏文が偽作ではないかとの疑いも取り沙汰されたが、湯鵬挙ら台諫が張浚を弾劾する奏疏を相次いで上程。張浚は久しく官を離れていながら妄りに国是を動揺させたとして罪に問われ、永州居住を命じられた。
葛立方、賀生辰国信使に
- 葛立方が大金賀生辰国信使に、梁份がその副使に任じられた。
十二月 年末の情勢
- 金が使者を遣わし正旦の賀を伝えた。あわせて金は李成を中山府知事、孔彦舟を西京知事に任じ、年号を正隆元年に改めた。