五日丙戌 新たに回復した河南州軍への大赦
- 皇帝は詔書を発し、金が和議に応じ河南の地を返還したことを受け、新復地域に大赦を布告した。詔文では、長年の戦乱による民の疲弊と陵寝の荒廃を悼みつつ、和議の成立を「上天が悔過の機を開いた」結果とし、軍民の労苦をねぎらい税を減免する旨が述べられた。
使節の往来と韓世忠の妨害未遂
- 韓肖胄が同簽書樞密院事として大金国信報謝使に、銭愐がその副使に任じられ、金へ赴いた。
- 韓世忠は和議の成立を喜ばず、洪沢に伏兵を置き紅巾の賊を装って張通古らの帰路を襲わせ、和議を破壊しようとしたが、部下の郝卞が転運使胡昉に密告したため露見し、使節団は急遽廬州経由に道を変えて難を逃れた。世忠はこれに深く怒り、郝卞を追ったが、郝卞は岳飛配下の李啓の元へ逃げ匿われた。
王倫、同簽書樞密院事に
- 王倫は同簽書樞密院事として、梓宮の奉迎と両宮の帰還・地界交割の使に任じられ、藍公佐が副使となった。金側の制書は王倫の弁舌と交渉手腕を讃えるものであった。
十日辛卯 尹焞、侍講に留任
- 尹焞は礼部侍郎の辞退を重ねた末、徽猷閣待制・提挙万寿観兼侍講に落ち着いた。かつて尹焞の辞退の文言(「不堪時用」)を秦檜が根に持っていたことが記される。
十三日甲午 趙榮の帰順
十四日乙未 楊煒、李光に書を送り翻意を批判
- 監明州比較務の楊煒は参知政事の李光に長文の書簡を送り、かつて剛毅で知られた李光が参政となって以降、和議に迎合し沈黙していることを痛烈に批判した。金がこれまで繰り返し盟約を破ってきた事実(燕薊割譲の顛末、靖康の破約など)を列挙し、和議の受け入れは国力を空費し将来の禍根となると論じた。
- 楚の懐王の轍を踏まぬよう、中原の地を「餌」として南朝を釣ろうとする金の意図を見抜くべきだとし、河南の空城を接収しても実際の維持費用は莫大になると具体的に試算して警告した。
- 大小・強弱が拮抗する場合にのみ和議は成立し得るのであり、宋のように劣勢な側からの和議要求は速やかな滅亡を招くとし、西漢と匈奴、石晋と契丹、六国と秦の史例を対比して論じた。李光に対し、御史時代の気概を取り戻し、宰相への追従をやめるよう強く求める内容であった。