大府寺丞某の再上書
- 前年十月に上書した大府寺丞某が再び上書し、天下の成敗は「形」ではなく「理」にあると説いた。夫椒・鴻門の会で伍子胥・范蠡や范増・張良が見抜いた「盛時にこそ潜む亡国の理」を引き、金がすでに一紀(十二年)にわたり中国を制していることを危ぶみつつも、皇帝が「衆人の争わぬ理の地」に心を遊ばせて和議を進めていることを、独自の兵法解釈(柔よく剛を制す、敵の驕りを誘う等)によって肯定的に論じた。
- 和議が成れば、七十万戸に及ぶ兵役負担や辺境の疲弊した民の負担を軽減でき、屯田・商業の回復にもつながるとし、金の「無約にして和を請う」ことへの疑念にも「使者の態度は倨傲であり卑屈ではない」と反論した(この文書は伝来の経緯に疑いがあるとして原本に注記が付されている)。
胡銓の左遷とその後
- 胡銓は秦檜・孫近・王倫の斬首を求める上書により樞密院編修官を罷免され、故郷へ帰る途中、貴池で旧知の方滋と面会し、処分の内実(樞密院属官としての昇進ではなく通常の州郡差遣にとどめられたこと)を確認した。
王庶・劉大中の左遷
- 樞密副使王庶は、和議に反対し続けたため資政殿学士・知潭州兼湖南安撫制置大使に左遷された。辞去の際も改めて宮観への配置換えを願ったが許されなかった。
- 知平江府向子諲は、張通古の通過に際し拝礼を拒み致仕を願い出て許された。劉大中・王庶はともに落職となった。蕭振は劉大中を「不孝」、王庶を「講和を妨げた」として弾劾する詞を寄せた。
- この月、金は「天春」と改元した。
王忠民の伝
- 威武軍の使者として行在に至った王忠民(河南潁陽の人、医家の出)は、宣和年間から燕山攻略や金との盟約破棄を予見し、靖康の変後も一貫して忠義の書(「安邊休征書」「保國長慶書」など)を著して朝廷や金軍に働きかけ続けた。劉豫政権下でも「九思図」「定乱四象」を著して金・斉の内情を朝廷に伝え、紹興十年に洛陽近郊で没した(享年七十五)。