金、河南の地を返還
- 金は東西南三京・寿春府・宿・亳・単・曹州および陝西・京西の地を宋に引き渡した。これを受け、韓世忠は少師、劉光世は輔国功臣・雍国公・陝西五路宣撫使、張俊は少傅、呉玠は開府儀同三司・四川宣撫使、岳飛は開府儀同三司、楊沂中は太尉・保成軍節度使にそれぞれ加階された。劉光世は陝西宣撫使の職を辞退した。
汪応辰、辺備を怠らぬよう上書
- 秘書省正字汪応辰は、和議成立後の朝廷が「油断による無備」と「意見対立の収束による上下の隠蔽」という二つの危険に陥っていると指摘。秦の楚・斉に対する外交の故事を引き、和議は長続きしない可能性があるとし、独断専行を戒め、広く衆議を容れて辺備を怠らぬよう卧薪嘗胆を説いた。
樊光遠、金の「誠実」こそ恐るべしと論ず
- 秘書省正字樊光遠は逆説的に「金の詭詐は恐れるに足りないが、金が本当に誠実であるならばむしろ恐ろしい」と論じた。燕雲十六州返還の際に空城のみを得て莫大な負担を強いられた前例を引き、河南の地を得ても財政負担が増大し、いずれ和議が破綻すれば手痛い禍を招くと警告した。
主戦派官僚の復職
- 汪伯彦が観文殿大学士、張浚が左宣奉大夫、王庶・劉大忠が端明殿学士にそれぞれ復職した。秦檜が官僚に命じて王庶・劉大忠の罪を上言させ落職させていたが、この頃には和議成立を理由に一定の融和が図られた形となった。王庶は九江に隠棲していた。
王倫、東京留守を代行
- 王倫は藍公佐とともに金国からの使いとして京師に至り、金が地を返還したことを受けて権東京留守兼知開封府となった。劉豫が建炎の初めに処刑した陳東・欧陽澈のために建てていた廟を、王倫は取り壊させた。
熙河方面の反乱鎮圧
- 熙河路経略使慕容洧が夏国に叛き投じたが、環慶路経略使趙彬がこれを追撃して破った。慕容洧は夏国へ逃走し、張中孚・張中彦は宋に帰順した。
知泉州連南夫、和議への警戒を上封事
- 三京・河南の地を得たことによる大赦の詔が泉州に到達した際、知州の連南夫は謝表の中に「爾を欺くを知らざるなかれ」との警句を織り込み、韓信・酈食其の故事を引いて油断を戒めた。さらに続けて上封事し、老子・孔子・易経の言を引きながら、金の意図は「将に取らんとすれば必ず先に与う」の策略にほかならないとし、太祖が南唐李煜を滅ぼした故事、唐高祖・突厥の故事などを引いて、金の厚意を安易に信じるべきでないと強く諫めた。