十七日戊申 徽宗の追尊
- 道君皇帝(徽宗)は聖聞仁徳顕孝皇帝と追尊され、恵恭皇后王氏は顕恭皇后、皇后鄭氏は顕粛皇后とされた。
五月九日庚午 張浚、行在に還る
- 張浚は趙鼎とともに宰相の任にあり、賢才の登用に努め(当時「小元祐」と評された)、河南出身の尹焞を経筵に推挙するなど学問振興にも意を用いた。旱魃に際し辞意を示す中、皇帝に「秦檜はどうか」と問われ、「近ごろ共事してその奸を知った」と答え、これを機に趙鼎の重用が図られた(かつて秦檜を靖康期に趙氏擁立を建議した人物として賢者たちが推挙していた経緯があった)。
岳飛、江州で服喪を願い出る
- 岳飛は張浚との軍議で意見が合わず、罷免を願い出て応答を待たずに廬山へ入り母の喪に服した。皇帝の使者の説諭にも応じなかった。劉豫は随州を陥落させた。
六月 呂祉の淮西赴任と軍中の不満
- 呂祉が淮西へ戻り、王徳も来朝した。呂祉は驕慢で軍務に疎く、統制官への応対も粗略であったため部下の憤りを買った。統制酈瓊・王世忠は呂祉の非を朝廷に訴え、王徳もひそかに諸将の驕暴と変事の懸念を密奏し、自軍を率いて禁衛に入った。
七月 張浚・楊沂中の淮西赴任
- 呂祉が将を御する才に欠け諸将の統制が取れないことが問題視され、張浚が淮西宣撫使、楊沂中が淮西制置使に任じられた。
酈瓊の反乱
- 楊沂中が呉錫を淮西に遣わし動静を探らせたところ、酈瓊・王世忠らは異心を察知され、統制康元は「朝廷は武臣を軽んじるが偽斉皇帝は将を厚遇すると聞く」と一同に呼びかけた。折しも王師晟が呂祉に讒訴された恨みもあり、酈瓊・王世忠・張全らは呂祉の密書を奪い自らへの弾劾内容を知って激怒、反乱を決意した。
- 八月某日朝、酈瓊は茶を喫する呂祉らの前で密書を示し、統制張景を殺害、呂祉を捕らえた。乱の中で喬仲福・邢支・劉永らも殺され、安撫使趙康直は捕らえられ、後任の趙不羣も一時捕らえられたが、行軍中に解放された。酈瓊らは呂祉に「王徳が我らを讒言したための已むを得ぬ行動であり、叛意はない、駐軍して朝廷の裁断を待つ」と弁明させ上奏させたが、霍丘に至って呂祉と趙康直を殺害し、そのまま淮西の兵馬・民衆十余万を率いて偽斉へ投降した。
- 皇帝はこれを聞き慟哭して悔恨した。劉錡・呉錫が追撃したが及ばず、投降せず脱走した者は加官され軍籍を復された。かつて張浚が呂祉への交代を進言した際、参政張守は「威望ある人物でなければ淮西の軍を掌握できない」と反対したが、張浚は聞き入れず、結果として大敗を招いた。
二十三日癸未 直言を求める詔
- 皇帝は直言を求める詔を発した。楊沂中は廬州に留まった。
八月五日乙未 劉豫、金へ援軍を要請
- 偽斉国内で宋の北伐計画の噂が広まり、劉豫の子劉麟は「先に動く者が制する」として金に先制出兵を求める上奏を行い、劉豫はこれに従い韓元英を金へ派遣した。
張浚の追撃失敗と朱勝非の善政
- 張浚は淮西宣撫使として廬州に至り酈瓊を追おうとしたが、既に淮を渡っていたため泗州へ退いた。朱勝非は知宣州として都督府が課した増徴米を独断で免除し、皇帝に大いに喜ばれたが宰相らの反感を買った。
岳飛、行在に赴く
- 廬山で服喪を続ける岳飛に対し、朝廷は参議官李若虚・統制王貴を派遣し復帰を促した。李若虚は「これでは謀反を疑われる、陛下の厚恩を受けた身で朝廷に抗するようなことがあってよいのか」と六日にわたり説得し、岳飛はついに詔を受け行在へ赴いた。張浚は道中で岳飛を諭しつつ、断りなく軍を離れ服喪に赴いた非を責め、岳飛は待罪を申し出て樞密院に上表した(その表には不満の色が滲んでいたと伝えられる)。
金国の内紛―高慶裔の処刑と尼堪の死
- 金では、尼堪の腹心髙慶裔が、宗盤(烏奇邁の長子)の陰謀により先んじて排除する形で贓罪に問われ、大理寺に下されて処刑された。尼堪はこれを見て泣いて別れを惜しみ、髙慶裔は「わが君が早くに私の言を聴いていればこうはならなかった」と述べたと伝えられ、両者の深い関わりがうかがえる。
- 『節要』によれば、尼堪は高慶裔の死を契機に絶食・大酒により憤死したとされ、正常な死ではなかったという。獄中の尼堪は上書し、自らが天会初年より遼・宋征服に功を立て、金主亶(完顔亶)の即位を支えた功績を縷々述べ、耶律の残党の反乱と杜充軍との対峙での兵糧断絶、副将の外戚勢力の裏切りが敗因であったと弁明し、恩赦を乞うた。
- 金主は尼堪門下に対し、尼堪が功臣でありながら権を恃んで異心を抱いたとして処刑を正当化する詔を下し、漢の四皓や周公の二叔誅殺の故事を引いて「悪を除き賢を用いる」道理を布告した。
- 尼堪死後、金の陣中では動揺が広がり、思謀(尼堪の家人)は「これほどの艱難を経て天下を取った主君が、今や小人どもに壊された」と密かに嘆いたという(思謀の妻の証言による)。思謀はその後寧遠大将軍・沁南軍節度使・知懐州に任じられ、太行の義軍が懐州を攻めた際には巧みな懐柔策で城を守った。烏珠は軍国の大事を思謀に諮問したという。
趙鼎の召還と楊沂中の要請
- 趙鼎は醴泉観使兼侍読として行在に召された。劉道は張浚が渋々ながら楊沂中の要請を容れて主管歩軍公事に任じた。
酈瓊ら、偽斉に投降
- 酈瓊らの投降の報は事前に順昌府経由で偽斉に伝わり、劉豫は喜んで盛大な出迎えの準備をさせ、馮長寧・李帥雄を接納使に任じた。酈瓊は靖難軍節度使・知拱州、劉光時・趙買臣・王世忠・靳賽らもそれぞれ偽官に任じられた。劉豫は彼らに宋軍の実情を語らせ、馮長寧を再び金へ派遣し援軍を求めさせた。