三朝北盟會編炎興下帙 紹興七年 1137年

九月十三日壬申 張浚、罷相

  • 酈瓊の乱の責を問われ、尚書右僕射張浚は観文殿大学士・提挙江州太平観に落とされた。この処分に先立ち、複数の臣僚が張浚を弾劾する上言を相次いで奏上した。

弾劾の上言(一)―軍情を失した専断

  • ある臣僚は、淮西の兵数万が偽斉に投降した事態を軽視する朝議の風潮を批判し、張浚が「軽率で謀に欠け、徳で人を服さず権勢のみを恃み、賞罰を気まぐれに行い、疑いなき者にまで疑心を生ませた」結果、酈瓊らの離反を招いたと断じ、宰相としての罷免を求めた。

弾劾の上言(二)―二十箇条の罪状

  • 別の臣僚は、張浚の罪状を二十箇条にわたり列挙した。主なものは以下の通り。
  • 川陝宣撫時代、独断で趙哲を誅殺し軍を潰走させた富平の大敗(既往の罪)。
  • 王庶を退け劉子羽の謀を用いた失策、譖言により曲端を殺し関中の人心を失ったこと。
  • 劉光世軍から呂祉への指揮権移譲を四ヶ月も混乱させたまま行い、将士に不信を生じさせたこと。
  • 泗州・盱眙の築城地選定の誤り(要害を得ず徒に労力を浪費)。
  • 淮西を戦地としながら防備の表裏の勢を欠いたこと、諸軍の家族を無理に前線へ移し民を疲弊させたこと。
  • 榷貨務の新設や無用の長堤建設など浪費の数々、偽の「竒功給暦」(戦功証明)の乱発による将士の不満。
  • 投降兵一万を本人の意向を問わず強制的に義兵へ編入したこと、虚偽の戦況報告をする者を優遇し忠信の士を遠ざけたこと。
  • 功績への不公平な論功行賞、民への過酷な徴税(戸帖の急な取り立て、官誥の売却など)、督府の財政が戸部の監督を離れていたこと。
  • 岳父宇文時中・兄張滉ら縁者を要職に取り立てる情実人事、四川人事での旧知偏重。
  • 衆議を容れず独断専行し、佞人を側近に置いて忠言を退けたこと。
  • 以上の失政が民の怨嗟と軍の叛乱を招いたとし、厳正な処罰を求めた。

弾劾の上言(三)(四)―処分の甘さへの不満

  • さらに別の臣僚らも、富平の敗戦以来の失策の積み重ねを指摘し、数万の軍を一日にして失いながら処罰が甘いのは示しがつかないとし、厳罰を重ねて求めた。

罷免の制文

  • 朝廷は「春秋の義は股肱の臣を重んじ、賞罰は近臣より正すべし」としつつも、張浚のこれまでの功を鑑み、鄧禹・諸葛亮が軍事的失敗の後も再起した故事を引き、観文殿大学士・提挙江州太平観という比較的寛大な処分にとどめた。

なお続く厳罰要求

  • これに納得しない臣僚らは、漢の王恢が匈奴誘引策の失敗により誅殺された故事(武帝「恢を誅さねば天下に謝せぬ」)を引き、張浚の罪はそれ以上でありながら処分が軽すぎると批判。さらに罷免後の張浚が反省の色を見せず賓客を招いて宴を張り、武装した護衛を伴って苕霅へ移り住んだことも問題視され、追加の貶降を求める上言が相次いだ。

十五日甲戌 張浚、さらに落職

  • 重ねての弾劾を受け、張浚は落職の上、依然として宮祠に留め置かれる処分となった。王庶が行在に召され(この時趙鼎はまだ復帰しておらず、荆南から呼ばれた)、楊沂中も行在に還った。

二十一日庚辰 恤民訓兵の詔

  • 皇帝は、兵政を誤って任せたことへの自責を込めた詔を発し、監司・守令に民への不当な徴発を戒め、将帥には将士の撫恤と訓練の徹底を命じた。劉光世・髙世則の行在召還も命じられた。呼延通・王勝・王権は淮揚軍で金軍を襲い撃破した。

十月九日戊戌 張浚、さらに永州へ左遷

  • なお処分が不十分だとの声が続き、張浚は左朝奉大夫・秘書少監・分司南京・永州居住へとさらに厳しく処分された。上言では、張浚が処分後もなお多数の親兵の帯同を朝廷に要求したことが「国を憂うより己が身の安全を図る」利己的態度として非難された。

『遺史』の評

  • 『遺史』によれば、張浚と親しかった樞密都承旨張宗元は自らへの累を恐れ、あえて張浚の斬罪を求める上表をして士論の恥とされた。周秘もなお処分が不十分だとして貶謫を求め続けた。
  • 参知政事張守はこれに対し「張浚は両淮防衛に尽力してきた。かつて劉光世を烏合の衆として罷免を進言したのも今回で証明された。臣下の失策をことごとく暴き立てれば、後世誰も陛下のために責任を負おうとしなくなる。張浚の母も老いている」と皇帝に訴え、皇帝も心を動かされ、結局張浚は分司の身で永州に居住することとなった。