三朝北盟會編炎興下帙 紹興七年 1137年

建康祈福と将帥人事

  • 太上皇のため建康府の寺院で祈福の使者が遣わされた。張浚がかねて文武兼備の大将才と推挙していた劉錡は、行在平江府で侍衛馬軍司解潜と沿辺制置副使王彦の両軍が行宮門前で乱闘した咎により両者を罷免、その兵を統合して権主管侍衛馬軍司公事に任じられた。

二十五日丁亥 徽宗・寧徳皇后の訃報

  • 金国へ使した何蘇が帰還し、大金右副元帥の書により太上皇帝(徽宗、道君皇帝)と寧徳皇后が相次いで崩じたとの訃報を伝えた。皇帝は慟哭して哀しみに耐えず、張浚は「梓宮いまだ返らず天下塗炭のこの深讐は前古に例のないもの、陛下は涙を払って起つべし」と奏し、詔の草案を進めた。
  • 二十八日庚寅、太上皇帝の訃音を諸方に告げる詔が発せられた。

張浚の自責の上奏

  • 張浚は、かつて陝蜀への出兵時に「金への深讐を雪ぐのは臣の役目」と誓いながら成功できず、両宮の憂苦がこの禍に至ったのは自らの責であるとして罷免を願い出たが、皇帝はこれを許さず職務に復させた。

使者の派遣と朱弁への配慮

  • 十年にわたり金に抑留されている朱弁の家族に官田五頃が下賜された。王倫は徽猷閣待制・奉使金国迎奉梓宮使に、髙公繪が副使に任じられた(王倫は建炎元年以来幾度も金へ使した経緯を持つ)。
  • 王庶は、太上皇の訃報を金が交渉材料に利用することを警戒し、鼎湖の故事(衣冠・刀剣を祀る象徴的な陵墓を建て、梓宮の返還の有無にかかわらず国の重みを示す)に倣うべきとし、それでも金が拒めば正当な討伐名分になると献策したが、既に使者派遣が決定した後で上奏は届かなかった。

楚州・真陽・太平州・鎮江の火災

  • 劉豫が放った間者により楚州・真陽・太平州・鎮江府で火災が発生し、劉光世軍の太平州の軍需・帑蔵が一夜で焼失した。

二十四日丙辰 親征の詔

  • 皇帝は、靖康の変以来の労苦と、今回の訃報による痛恨を切々と述べる詔を発し、正月十五日に平江府を発した。呂頥浩が来朝したが、張浚が建康行幸を進言していたため、呂頥浩は反対の機会を得られなかった。岳飛は太尉に加階された。

三月 建康行幸と呂頥浩の留守

  • 車駕は建康に至った。呂頥浩は臨安府への撤退を進言したが容れられず、少保・行宮留守に任じられ、孟庾は召還された。

十一日癸未 将士撫恤の詔

  • 皇帝は、十年に及ぶ征戍で疲弊した将士を思い、将帥に撫恤を怠らぬよう命じる詔を発した。

二十三日乙酉 王彦の転任と楊沂中の帰還

  • 王彦は洪州観察使・知邵州に転じ、兵馬は劉錡の侍衛馬軍司に編入された(先に部下の争いで一時降格されたが、皇帝の厚意により復した)。楊沂中は行在へ帰還した。

劉光世の加階

  • 風痺(中風)を患い辞任を願っていた劉光世であったが、召見の上で慰留され、私財百万を朝廷に献じて自軍を宿衛に組み入れる旨を申し出て皇帝を感心させ、少師・三鎮節度使・萬夀観使・営国公に加階された。

呂祉、行営左護軍を統べる

  • 兵部尚書呂祉は、宰相張浚の期待を受け淮西の軍馬を節制することとなり、王徳が都統制となった。張浚は劉光世が消極的な態度を続けることを憂い、用兵に明るいとされた呂祉を起用したものである。呂祉は詩人陳克を参謀に招いたが、葉夢得は「呂祉は将を御す器ではなく、陳克も文人であって国士ではない、淮西軍中は紛糾している」と諫めたものの、陳克はこれを聞かず赴いた(後の酈瓊の乱で危うく難を逃れることになる)。

四月 張浚、淮西を視察

  • かねて張浚は龜山に四大将を集め劉豫討伐の可否を諮った際、劉光世は守勢を、韓世忠は進撃を主張し、岳飛だけは「用兵すべきでない」と固く反対、意見がまとまらず張浚は岳飛を「敵を軽んじる無策」と評した経緯があった。今回、淮西の指揮官が交代したことを受け、張浚自ら軍を視察した。

無名の士人による「上張相公書」

  • ある東呉の一士人(三十二歳、姓名不詳)が張浚に長文の意見書を送った。金軍が両淮に屯し渡江を狙いながら皇帝親征で撃退された経緯を評し、淮の防御は水運の遮断と伏兵による攪乱(廬寿・滁和・通泰の三方からの牽制と海船・遊艇による焼討ち)で、戦わずして敵を屈服させられると論じた。
  • 中原回復の困難さを説き、金軍の去年の敗退は兵站の限界によるもので、金の実力そのものが衰えたわけではないと警告。孫権が赤壁・濡須で長江を守り抜いた例、南唐が淮甸を失って滅亡した例を引き、まず淮南の防備を固めることが長江保全の前提だと説いた。
  • さらに、金は西夏・契丹残党・回鶻・高麗・宋と四方に敵を抱えており、密使を送り西夏や契丹の残存勢力と結び南北挟撃の連携を図るべきだと提言。諸葛亮の渭南屯田の故事に倣い、淮西・廬寿・蘄黄・安復・荆襄の各地に耕戦両用の屯営を「犬牙の制」で配置し、堅実に守りながら機を待つべきだとし、自らも西北への使者役を買って出る旨を申し出て意見書を結んだ。