三朝北盟會編炎興下帙 紹興七年 1137年

韓肖胄の対(続)―屯田策の提言

  • 韓肖胄はさらに、劉豫が金を頼んで和議を装いつつ実は軍を疲弊させる策謀(三段構えの計略)を用いていると分析し、敵の再侵に備え「屯田」こそ最善の策と説いた。長江南岸の未墾地に沿江の諸将の兵を分駐させ、農閑期には軍事訓練を行い、収穫を分与する仕組みを提案。江北からの流民や江南の無業の民も募って屯田に加え、要害の地には重兵の大寨を置いて漕運費を節約しつつ攻守両様に備えるべきとした。
  • 屯田は防備だけでなく、江北の民に耕作の機会を与えることで彼らの心を得る「綏懐」策にもなるとし、渡河点や停泊地の防備・水軍の整備も屯田と並行して進めるべきとした。あわせて、戦時の急な賦役徴発が民の怨嗟を招かぬよう、皇帝の民を思う本来の仁政の趣旨を損なわぬ運用を求めた。

朱勝非の対

  • 朱勝非は、皇帝親政以来の軍政整備により内外の精兵が三十万に達し、今や士気も機も十分に整っているとし、進討僣偽・守備江淮・招撫遺民・揆度敵勢の四事を献じた。皇帝はこれを善しとした。

呂頥浩「十論」劄子

  • 呂頥浩は十項目にわたる詳細な戦略論を上奏した。
  • 用兵の策:金と契丹の二十年に及ぶ戦和の応酬とその末の遼滅亡の教訓を引き、和議の使者派遣を続けつつも真の狙いは北伐にあるべきとし、和と戦を並行させ油断させた上で不意を突くべきと説いた。
  • 彼此の形勢:金の勃興(契丹征服から中原侵攻まで)とその重臣・将帥(劉彦宗・烏舍貝勒・高慶裔・斡里雅布ら)を分析し、金軍の厭戦気分(自らの捕虜経験で聞いた兵士の望郷の嘆き)や重臣の相次ぐ死、驕慢による衰亡の兆しを指摘。対する宋軍は近年精選・軍備充実が進み、劉光世・韓世忠・張俊・楊沂中・岳飛らの下に約十五万の精鋭がおり、韓世忠の鎮江での勝利、呉玠の川口での連勝など戦果も挙がっているとし、太祖太宗が十四万の兵で天下を取った先例に照らし、今こそ好機だと論じた。
  • 挙兵の時期:金は毎年四月から馬を放牧地(澱)に入れ八月まで戦力が落ちること、暑さで弓の威力も弱まることを指摘し、唐の杜牧が李徳裕に献じた「夏に匈奴を討つべし」との献策を引いて、四月初旬の北伐開始を提言した。
  • 分道進兵の策:五万を泗州経由で汴京へ、二万を明州から海路で沂密登莱青州へ(未だ戦火を免れ劉豫の苛政に苦しむ京東・河北東路の民の帰順を期待)、二万を濠州に駐めて牽制と順昌府・豫州への奇襲を担わせる三方進撃を提案。略奪を厳禁し劉豫の苛税を廃して民心を得た上で七八月には一旦撤兵し、翌年再挙する漸進策(「彼入れば我出で、彼出れば我入る」の持久策)を説いた。
  • 糧運供軍:三方面それぞれの兵站計画(明州発の海路輸送、濠州への淮河水運、泗州以北の携行糧と現地徴発)を具体的に述べ、劉豫の糧秣を焼き払う「清野」戦術(紹興二年に韓世忠自身も是認したとされる)も併せて提言した。
  • 車駕の鎮江移蹕:建炎四年に自ら提案しながら実現しなかった鎮江行幸を改めて求め、周世宗が自ら軍を率い三関を無血で奪った故事(欧陽脩『五代史』の評も引用)を挙げ、北伐開始にあたり皇帝自ら鎮江に赴き将士を鼓舞すべきとした。
  • 淮甸の経理:淮南京西の荒廃地には、前線の濠泗州寿春府は武臣、その他は文臣を配して民政の建て直しと早稲栽培を進めるべきとし、羊祜の襄陽統治を範とすること、通泰の塩利(自らが太府少卿時代に把握した莫大な歳入額)を活かすための人材登用を求めた。
  • 機会を失うべからず:陝西での対西夏五十年戦の互角の戦績と対比し、金への連敗は兵の未熟さによるものであり金が真に無敵なわけではないとし、漢高祖が関中を得て最終的に天下を取った先例を引いて、たとえ汴京を得てもすぐには保てずとも意義があるとした。また現在の軍費(月額百十万貫以上、うち大半が五軍の維持費)の負担が続けば東南の民力が枯渇すると警告した。
  • 舟楫の利:晁錯の「中国五長・北人三長」論を引き、水軍こそ宋の得意とする戦力であるとし、水軍二万を編成し海路で京東方面(范温・崔邦弼・王進ら現地事情に通じた将を起用)を攪乱する低コスト高効果の策を提言した。
  • 衆議と独断:晋武帝が張華のみの賛成で呉討伐を断行した故事、唐憲宗が裴度のみの賛同で蔡州を平定した故事(韓愈の頌)を引き、六名の重臣の意見が割れる中でも最終的には皇帝の独断による決断が必要だと説いた。自らが紹興三年に朱勝非・孟庾らと共に北伐を計画しながら和議交渉の再開で頓挫した経緯を振り返り、今度こそ機を逃さぬよう求めた。ただし、なお進行中の和議交渉の結果次第では、この十論を保留し和議を優先してもよいとも付言した。