正月一日癸亥朔 建康府への移駐の詔
- 皇帝は平江府から建康府への移駐を告げる詔を発した。即位以来十二年、二聖いまだ帰らず祖廟も辺境に隔てられている現状を憂い、黄帝が定まった居所を持たなかった故事や周王の巡行の故事を引き、天意を察するため自ら大江に臨み建康に駐蹕すると述べた。
- 『中興遺史』は改めて、張俊が河南進攻と劉光世罷免を単独で上奏した経緯、これに反対した趙鼎の弁(劉豫は俎上の肉に過ぎぬが金との緩衝として残す方が得策、劉光世軍を無闇に罷免すれば士卒が動揺する)、結局趙鼎が建康行幸にも反対して罷免され観文殿大学士・知紹興府・浙東安撫使に転じた経緯を記す。
十五日丁丑 李綱への諮問と長大な奏答
- 皇帝は李綱ら旧臣に勅を賜い、偽斉・金軍撃退後の善後策(攻戦・守備・措置・綏懐の方策)を諮問した。李綱はこれに応え、長文の奏を献じた。
- 李綱はまず、敵の退却を喜ぶだけでなく、僭逆未誅・仇敵未報・中原未復を憂うべきと戒め、囲碁に喩えて「まず自軍の地盤を固めてから攻めるべき」と、守備を先、攻戦を後とする順序を説いた。漢の高祖が関中を、唐の粛宗が霊武をまず固めてから反攻した先例を引いた。
- 守備の要は淮甸・荆襄を藩籬とすることにあるとし、六朝が江左を保てたのも淮甸・荆襄に重鎮を置いたためだと説く。淮東は揚州、淮西は廬州、荆襄は襄陽を帥府として三大帥を置き、財源は江東・江西・湖南の各路にそれぞれ担わせ、屯田で自給させつつ長江沿いの水軍・戦艦体制も整えるべきだとした。
- 攻戦については、淮東の帥に京東西路、荆襄の帥に京西南北路、川陝の帥に陝西路の回復をそれぞれ担わせる分担制を提案。劉表が蜀先主の進言を用いず機を逃した故事を引き、好機を逃さぬことの重要性を強調した。
- 措置(都の選定)については、臨安・平江は水郷で狭隘であり、建康こそ帝王の宅たる地勢を備えるとし、六朝以来の古都建康への駐蹕を進言、宮闕・城壁・官府・営房の漸次整備を求めた。
- 綏懐(民心慰撫)については、金の圧迫下で已むを得ず服従した中原の民が本来宋を慕う心を失っていないとし、淮南・荆襄の防備が固まれば宿遷の民のような内応・帰順が相次ぐと見て、帰順者への田地・官爵の優遇を説いた。
詔への応答と九年の反省
- 李綱は皇帝の「虚己以聴、択善而従」との詔に感激を露わにしつつ、この九年間、国は治まらず将は驕り兵は練れず財政も窮乏したのは、閑には和議を、急には退避を是とする臣下の風潮に起因すると痛烈に批判した。
- 近年ようやく親征により和議・退避策の誤りが正され、数十万の敵を退けた実績が出たことを評価しつつ、なお敵情は油断ならず、善後策を講じるべきだと説いた。
「尽く前日の所為に反せよ」―退避と和議の放棄
- 李綱は、漢高祖・光武帝・宋太祖太宗・真宗澶淵の親征の先例を挙げ、退避策は一時しのぎにしかならず、これまでの退却のたびに領土を失ってきたと指摘、以後は退避策を取らぬよう求めた。
- 和議についても、東晋が石勒の使者を退けた故事を引き、金が自ら結んだ怨みの深さを知る以上、卑辞重幣を尽くしても信頼は得られず、かえって不可能な要求で自治自強の妨げになるだけだと論じ、和議の使者派遣を当面停止するよう求めた。二聖の帰還要請も、まず軍事的優位を確立した後に行うべきとした。
朝廷を正すことの重要性と六箇条の建言
- 李綱は、藩方(辺境の守り)と将士(実戦部隊)はいずれも根本たる朝廷・腹心があってこそ機能すると説き、君主が己を正し朝廷を正し百官を正すことが第一であるとして、六つの具体策を提言した。すなわち、一に信任輔弼、二に公選人材、三に変革士風、四に愛惜日力、五に務尽人事、六に寅畏天戒である。
- このうち第一の「信任輔弼」については、漢高祖が蕭何を、唐太宗が房玄齢・杜如晦を、蜀先主が諸葛亮をそれぞれ全幅の信頼で用いた故事を引き、君主が輔弼の臣を疑うことなく長く任じ、讒言に惑わされずに委ねてこそ中興の大業が成ると論じた(他の五箇条は後段で詳述される)。