八日癸酉 車駕、平江府に幸す
十日乙亥 韓世忠来朝、王庶が荆湖北路経略安撫使に
- 韓世忠が来朝した。王庶は四川より召還され、荆湖北路安撫使・知鄂州を経て知荆南府・湖北路経略安撫使としてこの時着任した。岳飛は鄂州に退軍した。
二十九日甲午 劉豫入寇、張俊建康にて督戦
- 張俊は渡江して淮上の諸屯を撫し、徽宗不予・欽宗が金帥へ送った書の情報に接し、深く悲憤した。張俊軍は旴眙に進み、三軍(張俊・韓世忠・岳飛)が鼎立する体勢を築き、岳飛は蔡州まで兵を入れて敵の物資集積所を焼いた。
- 張俊は建康行幸の急務を強く進言、皇帝は九月一日に出発、張俊は先んじて江上で敵情を探った。劉豫の甥劉猊による侵攻と、劉豫が淮西王に封じた劉麟率いる六万の軍が寿春を経て合肥に迫っていることが判明。張俊は「今こそ合兵して迎撃すべき好機、士気は極めて高い」と上奏し、皇帝は「卿の見識の高さに深く感服した」と手詔で応え、諸将に迎撃の計を命じた。
侍御史魏矼、講和不可を論ずる
- 魏矼は、魏良臣・王繪の帰還時の金国情報も踏まえ、靖康以来の和議が敵の引き延ばし策に利用されてきた経緯(王倫の和議督促、五輅要求による遷延など)を指摘し、講和の二字を断固退けるべきと上奏した。
- 大軍が天険を占め精鋭十万を擁する現況を、赤壁の戦いで曹操の大軍を寡兵の周瑜が破った故事、趙が秦に屈服しかけたのを魯仲連が一喝して秦軍を五十里退かせた故事に重ね、劉豫が金の威を借りて仕掛けた今回の侵攻に対しても断固戦うべきだと説いた。
十月四日戊戌 王徳・酈瓊ら、安豊県・芍陂で劉豫軍を破る
- 偽斉が淮甸に大挙侵攻する中、劉光世配下の王徳・酈瓊らは安豊県で、知寿春府孫揮は芍陂でそれぞれ劉豫軍を撃破し、霍邱・正陽・羊前でも連勝して敵の勢いを挫いた。
八日壬寅 楊沂中ら、定遠県で劉猊を破る
- 劉豫の甥劉猊は渦口から渡淮し定遠県に入ったが、張俊の指揮下にあった楊沂中・張宗顔・王偉・呉錫らが迎撃し大破、敵将李亨を捕らえた。
十一日 劉麟、廬州から敗走
- 劉麟は劉猊敗北を知り廬州から撤退。この間、劉光世は淮西王麟の兵勢を恐れ、都督府を経ずに趙鼎(宰相)・折彦質(僉書樞密)を通じて密かに太平州への退却許可を得ようとしたが、これを知った張俊は激怒し向子諲を派して光世を廬州へ引き戻させた。皇帝は王徳に自ら手札で激励し、光世の命で王徳は寿春県まで追撃、偽斉軍は大敗し多くの軍需・偽交鈔などを遺棄した。王徳はこの功により相州観察使に任じられた。
参知政事沈与求の辞任
- 沈与求は、軍事の大事に関与できぬ立場に不満を持ち、たびたび上疏して辞任を願い、資政殿学士・知明州、さらに提挙臨安府洞霄宮となった。
十八日癸丑 寿春府攻略失敗
- 張俊・楊沂中は寿春府を攻めたが陥落させられず退いた。王彦は新任の行営前護副軍統制として行在に至った。
十一月 藕塘の戦いと張俊の建康行幸論
- 劉豫は河南各地に偽の金兵姿の郷兵を分散配置し兵勢を誇示、韓世忠が承楚に構える兵を恐れ淮東方面への進撃を控えていた。楊沂中は濠州に至り、劉光世軍と連携。劉猊が兵を分けて後方を固めようとしたところ、楊沂中が藕塘で大破し、劉猊はほぼ単身で逃れ、劉麟も柵を捨てて敗走した。
- 張俊は「車駕は好機を逃さず江上に幸すべき」と上奏、皇帝は手書で「周瑜の赤壁、謝安の淝水の勝利に劣らぬ功」と称賛した。張俊が平江府で朝見した際、皇帝が「敵を退けた功はすべて右相(張俊)の力による」と述べたため、左相趙鼎は恐懼して辞意を示した。
十二月五日戊戌 韓世忠、淮陽軍で金軍を破る
趙鼎、罷相
- 韓世忠が淮陽軍で金軍を破った。同日、趙鼎は宰相を罷め観文殿大学士・知紹興府兼浙東安撫使に転じた。
- 『中興遺史』によれば、張俊は勝機に乗じ河南を取り劉豫父子を捕らえるべきと単独で上奏し、あわせて劉光世の驕惰・戦わぬ姿勢を批判し罷免を求めたが、趙鼎はこれに反対。「劉豫は俎上の肉に過ぎぬが、金の後ろ盾を失わせず取り込んだままにしておく方が得策で、河南を得ても金の再侵を防げるとは限らぬ。また劉光世麾下の統制・輜重の権益を安易に奪えば軍が動揺する」と説いた。張俊は不満ながらも建康行幸を重ねて求め、趙鼎はなお時期尚早と諌めたが、結局趙鼎は罷免され、観文殿大学士・知紹興府として浙東安撫使に転じた。
- 張俊は行状の中で、車駕巡幸の可否は天下の存亡に関わる大事であり、優柔不断な逗留策は将士の忠義心を萎えさせ、朝廷の号令への信頼を損なうと重ねて論じた。「秋に進み春に還る」式の場当たり策を続ければ年々士気は緩み立国が難しくなると説き、皇帝はこの論に従った。
十二日 趙鼎、知紹興府に。折彦質、罷免
- 趙鼎は知紹興府に着任。折彦質は、劉光世の不当な退却要請を助けた責を台諌に論じられ、樞密院を罷めて端明殿学士・提挙西京嵩山崇福宮となった。
張俊・楊沂中の加階と邵隆の復官
- 藕塘(長樂鎮、地名は李家湾)の功により張俊は少保・鎮洮崇信奉寧軍節度使、楊沂中は保成軍節度使にそれぞれ加階された。皇帝は親筆の詔で両将の見識と精鋭ぶりを称え、格別の厚遇を与えていることに応えるよう激励した。邵隆は知商州に復した。