王繪の通和録―十月十日~十一日 礼物の受け渡しと出発
- 十月十日、皇帝の金字牌が到着し、礼物・私覿の品は鎮江府に留め置き、天長路より六合を経て進むよう命じられた。尚書省は良臣らが「わざと遅延している」と疑い、韓世忠にも督促の使者を出させた。
- 十一日朝、鎮江府で礼物の引き渡しを終え、魏良臣・王繪は軽装で使臣・軍兵十九人と共に西津から渡江。見送りの沈晦は「これほどの忠義は立派だが、軍前で危険に遭った時どう身の証を立てるのか」と案じ、王繪は「死をもって国に報いるのみ」と答えた。強風のため一時水府廟で待機し、瓜州軍営に宿泊した。
十二日 韓世忠との揚州会見
- 十二日、楊子橋で韓世忠の使者に会い、聖旨により速やかな渡境が督促されていることを知らされた。揚州では韓世忠自ら饗応し、御前よりの金字牌(韓世忠に軍を鎮江へ戻し江口を守らせよとの命)を良臣らに示した。
- 陳桷・董皎の見送りを受け出発。護衛の兵卒が疲弊しきっていたため、王繪は彼らを帰し本来の使臣・軍兵のみを伴って進んだ。この夜は大儀鎮に宿営したが、住民も官吏もおらず食料も乏しい荒廃ぶりであった。
十三日 金軍騎兵に捕らえられる
- 十三日、進軍中に金の騎兵十騎と遭遇し矢を射かけられたが、王繪と良臣は自ら旗を掲げ「講和のために来た」と大声で告げ、これに応じた金兵に伴われ天長へ連行された。
- 道中、皇帝の所在(杭州)や韓世忠軍の規模を尋ねられ、韓世忠が講和後に反撃してくるのではとの疑いも向けられたが、王繪は「兵事は使者の関知するところではない」とかわした。
- 天長近くで金将聶哷貝勒(部下は「万戸大郎」と呼ぶ)に会い、欽宗(少帝)・高宗それぞれの年齢を問われた。天長軍前で通訳と対話し、和議への期待、皇帝の年齢、汴京時代の面識、秦檜(当時宮観閑居中)の消息などが話題となった。
十四日未明 万戸大郎の詰問と処刑の危機
- 十四日未明、王繪らは天長南門外へ連れ出され、三百余騎に包囲された。金兵が現地の水寨勢力を斬殺する場面に遭遇し、韓世忠軍配下の使臣らしき負傷者三名も引き出されたため、万戸は「講和と言いながら裏で謀略か」と激怒し、刀を向けて殺害しようとした。
- 王繪は天を指し日に誓って「使者は国のため死を賭して来た。もし信じられぬなら死んで国に報いるまで」と厳しく訴え、半時辰に及ぶ問答の末に理を認められ、危機を脱した。元帥(達蘭)のもとへ送られることとなった。
通事李聿興との交渉
- 護送の途上、通事の蕭赫嚕(小名)・李聿興と対話。江南が求める和議の条件(歳幣として銀絹各二十五万匹両、章誼が定めた現存地の維持)を説明したが、李聿興は「和議を求めながら韓世忠に不意打ちさせるとは酈食其の故事のようだ」と非難した。
- 王繪は「酈食其を殺した田横にこそ非がある。江南は大国の軍を止めようとした事実はない」と反論し、襄陽・鄧州など旧地回復のため岳飛を派した経緯(李成の反覆・楊么との結託への対応)を弁明した。李聿興は淮南占拠や韓世忠の動きへの不満を重ねて述べたが、王繪は使者の立場では専断できない旨を繰り返し説いた。
- また秦檜の近況、当年の科挙で「天下不可以馬上治」(陸賈伝の故事)が出題されたことなどが話題となり、李聿興は「大国が兵を偃め文を修める意ならば天下の幸い」と応じた。
二十九日 元帥達蘭との対面
- 護送先の城内には多くの兵馬・鍛冶場・糧船が集められており、東京から徴発された船や物資輸送の様子が見て取れた。屋内で達蘭に謁見し、皇帝の安否・使命の趣旨(和議の懇請と二聖の帰還要請)を伝えた。
- 通訳は「これまで幾度も約束を違えられた」と不信を露わにしたが、王繪は「過去の失信は前朝の奸臣の誤りであり、今上は即位以来一度も信を失っていない」と弁明。達蘭側は「この地を得てから民一人殺さず、家屋も壊していない」と自らの節度を強調した。
- 達蘭は数日待って協議の上、返答すると告げ、良臣らは宿舎に戻された(国書を届けた趙校尉は副元帥付きの通訳であった)。李聿興との会話では旧知の沈晦(沈元用)の消息も話題に上った。事態が二転三転し遷延するのを恐れた良臣・王繪は、通訳の伝える内容が乏しく実情を測りかねる中、事の停滞を防ぐため達蘭に長文の書を献じることとした。