三朝北盟會編炎興下帙 紹興四年 1134年

八月三日庚寅 趙鼎・岳飛の任命と襄陽奪還

  • 趙鼎は知樞密院事・川陝宣撫処置使に、岳飛は都督湖北荆襄諸軍事・清遠節度使・湖北荆襄制置使に任じられた。「秦を得てこそ中原を制せる」との献言により決定された人事である。
  • 宰相朱勝非は岳飛に攻略の方針を授け、招撫安定を旨とし民を屠掠せぬこと、戦捷の報告には「某州を収復平定した」とのみ記し殺戮を云々しないことを命じた。岳飛は一挙に襄陽・随州・郢州を回復し、班師後に節旄を授けられ諸将も功に応じて賞された。献捷の礼を行おうとの議もあったが、朱勝非は中原全土回復・大駕還汴まで待つべきと退けた。

九月五日辛酉 劉豫、劉麟を南下させる

  • 偽齊の劉豫は皇子劉麟を東南道行台尚書令とし、金軍と合流して南下させた。劉麟と右丞相張昂は既耕の熟田に一畝ごと銭二百五十文の税を課す策を上申し、劉豫はこれを許した。

王大節の偽装投降と敵情探索

  • 岳飛の客将であった川人王大節は、李成が劉豫に帰順した縁を利用し、偽って劉麟に投降。厚遇されて皇太子府属官に任じられた。
  • 劉麟に江南攻略策を問われた王大節は、四川を先に攻略してから長江を下るべきと説き、劉麟が主張する金軍と合流し淮甸から長江を直接渡る策には反対した(劉麟は聴き入れず)。敵情を得た王大節は脱出して岳飛のもとへ帰還、朝廷に召されて事情を奏上し、淮南の防備強化を進言、丞節郎閤門祗候に任じられた。後に偽斉・金軍は実際に淮甸で合流し攻め寄せた。

九月十四日庚午 朱勝非、宰相を罷める

  • 朱勝非は四月以来、母雍国夫人楊氏の喪に服そうと辞意を示したが、皇帝はたびたび親筆の詔で慰留し、国政の急務を理由に留任させていた。六月には長雨による農害を理由にも辞を願ったが、皇帝は賢相の心がけと認めつつも留任を求め続けた。
  • 明堂の祭祀を終えた後、朱勝非は改めて十一の罷免事項を論じて辞意を通し、金・偽斉の侵攻という非常時にあって世論も彼の対応を疑問視する中、ついに服喪のため罷免が許された。
  • 朱勝非は人材登用にあたり賢と見れば用い、批判が出れば退けるという公正な姿勢を貫き、言路が塞がりがちな中でも君主に直言することを憚らなかったと評される。

岳飛、湖北荆襄潭州制置使に

  • 王燮が制置使として功なきため罷免され、岳飛が湖北荆襄潭州制置使に任じられ、程昌禹に上流への進軍を命じて楊么討伐の機をうかがわせた。

十月三日己丑 魏良臣・王繪、金国への使者に任命

  • 魏良臣が奉表通問使、王繪が副使として金国軍前への派遣が決まった。以下は王繪自身の「通和録」に基づく顛末である。
  • 建炎以来、宋から金への使者はしばしば抑留され返答なく終わっていたが、紹興戊戌(八年に先立つ経緯)に金の王倫が講和の意を伝えて以来、潘致堯・韓肖胄・章誼らが遣わされたものの議は未定のままであった。

出発前の宮中でのやり取り

  • 出発に先立ち、良臣・王繪は宰相朱勝非・枢密趙鼎に使者としての心構えを問うたが、趙鼎は「成否は二公の責ではない、選ばれたのは応対の粗漏を恐れてのこと」とはぐらかし、王繪は「これでは使者に責任がない」と不満を漏らした(趙鼎は当初から和議に積極的でなかったとされる)。
  • 皇帝は良臣らを親しく引見し、歳幣・歳貢の交渉は多少譲歩してもよいとし、金に抑留中の宇文虚中の早期帰還を求めること、李成の侵犯によりやむなく岳飛に襄陽奪還を命じた経緯を金側に説明することなどを指示した。

使者派遣をめぐる朝議の混乱

  • 王繪は、これまでの交渉経緯(潘致堯・韓肖胄・章誼らの往還)を踏まえ、疆界の一件のみが未定であるのに今回の使命に新味がなく、金側から「逗留(引き延ばし)」と非難されかねないと懸念を示した。
  • 朱勝非は「増幣も限度があり百官の俸給を削ってようやく捻出している」と応じたが、王繪は「淮南・川陝の割譲こそ金の本意であり、歳幣の多寡は名目に過ぎない」と反論。金主本人への礼物が抜けている不備や、金の実力者への私覿の礼物の不足も指摘し、追加を求めた。
  • 出発準備は九月十三日から三日限りで整えるよう命じられたが手違いが重なり、九月十九日にようやく皇帝が再度引見、丁重な言葉で送り出した。

出発後の混乱と趙鼎の態度

  • 出立の日、宰相朱勝非は多忙を理由に会わず、王繪は柱廊で「使者を危地に遣るのに送別の対面すらないとは」と声を荒げて憤った。
  • 途上、泗州・平江府・常州などで金軍の南侵(楚州方面)の急報が相次ぎ、淮東の官吏はすでに退避・離散していた。趙鼎は機密を理由に良臣らとの面会を避け続け、劄子のやり取りのみで応対し、結局出発直前まで実質的な相談に応じなかった。

十月七日 鎮江に至り、王繪が上申

  • 鎮江に着いた良臣・王繪は、すでに韓世忠が維揚に進駐している状況を知り、募った使臣に旗を持たせて先行させ様子を探らせた上で進む策をとった。
  • 王繪は連名で都堂へ上申し、淮南の道路が敵軍により寸断され、淮東の官吏も四散した中で強行前進すれば無益に敵手に落ちるだけであり、朝廷の措置が適切でないと訴えた。
  • また、劉豫配下の承楚州守兵が和議を歓迎するはずもなく、金軍が関与を知らぬはずもないと指摘し、この状況下での和議交渉そのものに疑問を呈した。

王繪の建言―決戦の好機を活かすべき

  • 王繪は、古来の講和は対等な実力があってこそ成るもので、弱者から強者へすり寄る和議はあり得ないとし、澶淵の盟の先例を引いた。
  • 諸将は近年兵を養い士気は前より高いのに、朝廷が金の偽りの和議を信じて出兵を控えたため、士気が萎え民心も離れつつあると批判。今まさに韓世忠が全軍を率いて淮甸に進駐し敵撃滅を期している好機であり、朝廷は建康防衛の張俊・劉光世らとも連携し諸将を鼓舞して一気に決するべきだと説いた。
  • もしこの機を逃し、弱腰の使者派遣に頼るだけでは「羊を虎に委ねる」に等しく、何の功もないと断じ、自らの使命の遂行より国家の安危が優先されるべきと述べ、朝廷に速やかな決断と、自らの上申の採否についての明確な指示を強く求めて結んだ。