王繪、達蘭元帥へ長書を献ずる
- 王繪・魏良臣は達蘭元帥に長文の書を献じた。古来の帝王は已むを得ず兵を用いる時も仁義を本とすると説き、大国(金)が入境以来民を害さず秋毫も犯さぬ節度を称え、その徳を慕う旨を述べた。
- 江南(宋)は大国の恵撫を蒙り、丞相・都元帥の書によって立国を許されたことに感謝し、以来三度使者を送りながら成命を得ず、章誼らの帰還後に自分たちが再度遣わされたのだと説明。現存の地を守り歳々貢献する事大の礼を尽くす意志を示しつつ、二聖の帰還を願う軺車の途上で急な進軍に遭い困惑していると訴えた。
- 大軍圧境からすでに一月余り、使者到着からも二旬近く経つのに裁断がないことを憂い、これが慎重な合議のためか、あるいは近隣国(劉麟の存在を指すと思われるが深くは触れていない)の思惑による遅延なのか測りかねると述べた。大国が土地を望むにせよ臣服を望むにせよ、江南はすでにそのいずれをも差し出す意志があるとし、生霊を思う堯舜湯武の心をもって早期の裁断を賜りたいと懇請、もし許されずに攻められるならば使者として先に死んで報いる覚悟であると結んだ。
通事李聿興との対話
- 書を託された聿興は権限がないとして即答を避けたが、後日ひそかに二人と会見。聿興は元は樞密院の令史(宋の制度に倣い進士出身者が任じられる職)で、元帥の軍に随行するうち蕭赫嚕と同僚になったと自らを語った。
- 金の官制は多く唐制に倣い、宇文虚中・蔡松年(蔡攸の子、当時三太子のもとで令史)らが制度整備に関わっていること、丞相が宇文虚中を厚遇していることなどが話題となった。
- 聿興は書状の内容を評価しつつ、達蘭の気性は竹を割るように性急で、和議を進めるなら江南は一切の条件を譲らねばならず、さもなくば即座に進軍すると告げた。
二十六日 達蘭との再会見と帰還の許可
- 二十六日払暁、赫嚕・聿興を通じ達蘭より使者の即時帰還が告げられた。聿興は密かに「あなた方は帰れるが、我々のような境遇の者はいつこの苦境から抜け出せようか」と嘆いた。
- 達蘭自ら三百余騎を率いて出迎え、改めて「江南が淮南に無断で軍を駐屯させ、韓世忠に不意打ちさせた」との非難を繰り返したが、王繪らは「淮南に駐兵しない約束は守っており、韓世忠は境上防備の職掌に過ぎない」と弁明した。
- 通訳は和議には誠実さが必要であり、姚平仲の汴京夜襲の故事のような裏切りは許されないと警告しつつも、双方とも捕虜を殺していない事実を確認し合った。国書のうち大金皇帝への表のみを留め、他の文書・進物録は戦況次第で扱いが定まらないとして返却された。次の使者派遣の期限は半月から二十日、経路は揚州経由とすることが確認され、皇帝への見舞いの言葉も託された。達蘭の兄と見られる人物や呉龢らしき人物も同席していたと記される。聶哷貝勒は鉄騎三千余を率い鎮江府まで一行を送り届けた。
帰還と朝廷への復命
- 鎮江府で韓世忠に、常州(二十八日夜)で張俊に、滸市(二十九日夜)で再び張俊に、それぞれ敵情を報告。十二月一日、平江府で趙鼎・沈晦(沈元用)・胡某と対面したが、魏良臣は道中の艱難を訴えるより先に趙鼎の当初の消極姿勢を難詰し、都堂で申し開きしたいと激しく詰め寄った。趙鼎は「自分は関与すべきでない」と参政・枢密に取り次ぐのみであった。
- 朝廷では帝が直々に労い、王繪は見聞した金軍の兵力(約二万、戦船三百余隻)を報告し、漢の高祖が匈奴を軽んじて敗れた婁敬の故事を引いて敵を侮らぬよう諫め、私利のために国土を割く臣は死んでも行わないと誓った。帝はこれを是とした。
- 帝が達蘭の風貌を問うと、良臣は初対面時に達蘭が「かつて汴京で陛下に侍し、家屋普請の喩えを聞いた」と語った逸話を語り、帝を驚かせた。当初は冷遇気味だった宰執らの応対も、帝の厚遇を知ってから改められたという。
帰還後の政争と顛末
- のち吳幵・王純度らが使者一行を趙鼎に讒言し、二ヶ月と経たぬうちに三人が相次いで急死する不審な出来事があり、因果応報と噂された。魏良臣は宰執の態度に失望し辞意を固め、程なく致仕した。
- 韓世忠は張杞を軍前に遣わして文書を届け、観察使に遷任。年末には金軍が退いた。事後、馬承家・魏良臣は共に弾劾され罷免、渡江しなかった将は恩賞を減じられるなど処分が相次いだが、これらはいずれも趙鼎が当初和議に積極的でなかったことに起因すると評された。魏良臣は致仕し、王繪も宮観の閑職を得て帰郷、その後の詳細は記されない。