三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興四年 1134年

岳飛、京西諸州を回復

  • 五月、韓世忠が鎮江府から来朝した。
  • 朱勝非の建議により、岳飛は江西・舒蘄・湖北諸州制置使に任じられ、淮西軍と連携して襄陽方面の奪還にあたることとなった。牛臯が唐鄧郢安撫副使として岳飛軍に加わった。
  • 岳飛は郢州を攻め、偽斉の守将荊超は自害、抵抗した知県劉某は捕らえられ処刑された。続いて襄陽府を回復し、さらに唐州も奪還した。
  • 六月、岳飛は張憲・牛臯を派して随州を攻略。牛臯は功を部下に譲る謙譲を示し、知州王嵩を捕らえて凌遅処刑とした。京西の数州も回復し、董先の軍も岳飛麾下に加わった。

諸将の加階

  • 七月、劉光世が来朝した。呉玠は饒風関の功により検校少保に加階された。

辛炳、朱夢説の一件で漳州へ

  • 御史中丞辛炳は度重なる大臣弾劾で知られたが、部下の朱夢説から「上に諫言なし」と批判する私信を受け取り、これを皇帝に奏上したため不興を買った。岳飛は朱夢説を厚遇しつつ罷免し、辛炳自身も漳州知事へ転出した。
  • 中興姓氏録によれば、朱夢説は徽宗朝の政和年間、複数回にわたり時務策を上奏した人物であった。その内容は、(一)仕官の道が賄賂で濁っていること、(二)花石綱など不急の造営事業が繁多であること、(三)宦官の権勢が過大であることの「三太」を厳しく批判するものであった。士大夫が宦官や権門に媚びへつらう風潮、常平倉の蓄えが底をつき水旱に備えられない財政状況なども指摘し、徽宗への直言を貫いたが用いられなかった。後に進士に及第し、岳飛に見出されて幕僚となった。