三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興四年 1134年

張浚、さらに処分される

  • 十七日、張浚は資政殿大学士の職も削られた。落職の詔書には、富平の大敗や独断専行、召還命令への不遜な対応などが列挙されている。
  • その後も複数回にわたり弾劾の上奏が続き、二十一日には福州居住が命じられた。一部の臣僚は嶺南への流罪を求めたが、朝廷はそこまでは踏み込まなかった。官田の貸与など優遇措置も一時検討されたが、世論の反発で撤回された。

劉子羽も処分される

  • 四月一日、張浚の腹心とされた劉子羽も、富平の敗戦を主導した責任や、曲端・趙哲の獄への関与、召還命令への不遜な対応を理由に弾劾され、江州太平観提挙に左遷。四日にはさらに単州団練副使・白州安置に降格された。程唐(茶馬司の不正で知られる)も同様に処分の対象となった。

張栻、父の幕僚劉子羽の功績を記す

  • 一方、張浚の子張栻が著した墓誌では、劉子羽の別の側面が描かれる。富平敗戦後の混乱期、劉子羽は単騎で秦州に赴き散り散りになった諸将を糾合し、呉玠・王彦とともに和尚原・饒風嶺・仙人関などの防衛線を支えた。金州陥落の危機に際しては、劉子羽自らが寡兵で敵の前面に立ち、呉玠の援軍到着まで持ちこたえるなど、四川防衛の実質的な功労者であったことが詳述される。この対比は、朝廷の弾劾と現地での評価との落差を示すものとして記録される。

趙哲、名誉回復

  • かつて張浚により処刑された趙哲について、朝廷は親衛大夫・明州観察使の官を追復する詔を発した。

呉玠、秦鳳・隴州を回復

  • 呉玠は鳳州で烏珠と交戦して連勝し、秦州・鳳州・隴州を回復した。定国将軍節度使・川陝宣撫処置副使に改授された。

寿春府の離反

  • 知寿春府羅興が府を挙げて劉豫に叛帰した。