三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興二年 1132年

劉嶸、時政七策を上奏(上)

  • 十月六日、右迪功郎劉嶸が万言の上書を献じた。星変を機に政事の得失を問う詔に応じたもので、七つの策のうち前半五策を本篇で述べる(後半は次篇に続く)。
  • 第一策「和議を罷めて戦略を修む」:講和は互角の勢力同士でこそ成り立つものであり、宋と金の間では成立し得ないと説く。靖康年間、耿南仲・李邦彦が講和方針を主導したために種師道らの主戦論が退けられ、両帝の連行という結果を招いたことを例に、講和路線の危険性を論じる。使節への贈物を軍費に転用し、講和を絶って戦備を整えるべきと説く。
  • 第二策「行台を置き緩急の務を区別す」:地方からの貢納が滞り、財政が榷貨・塩利頼みとなっている現状を憂い、建康・南昌・江陵・長沙のいずれかに「行台」を置いて宗廟・太后・百官を安置し、経験豊富な大臣に留守を委ね、皇帝自身は軍を率いて機動的に各地を巡ることを提案する。
  • 第三策「実効を務め虚文を去る」:軍の訓練・将帥の選任・賞罰の運用について、形式的な措置ではなく実効性を重視すべきと説く。兵士の淘汰と精鋭化、階級の法(軍紀)の徹底、進撃・撤退・降伏それぞれに応じた明確な賞罰基準を求める。
  • 第四策「天下の兵を大いに起こす」:宿衛の兵が手薄である現状を憂い、両浙・福建・江東西・湖南北・四川・広東西から禁軍を選抜して御営軍を増強し、皇帝自身が親率すべきと説く。現在の劉光世・韓世忠・張俊・辛(某)の四将に権力が偏っている状況(苗劉の変の遠因ともなった)を危惧し、皇帝親率の禁軍を中心に据えることで諸将の専横を抑えるべきとする。あわせて、福建・両浙・江湖・広西などから郷兵を組織し、京西・淮南の荒地に屯田を置いて兵農両立を図ることも提案する。
  • 第五策「根本を定む」:都をどこに置くかという問題について、単なる建都論ではなく国家の戦略的根拠地の問題として論じる。関中は現状では手が届かず、建康は南朝以来の故地だが偏隅にすぎない。楚が上国と覇を競った故事、曹操が荆州の帰趨に驚愕した故事、庾亮・桓温が荆襄を拠点に中原経営を図った故事などを引き、荆襄こそ守りやすく攻めやすい要地であると説く。東晋が百年の命脈を保てたのは特殊事情によるものであり、父兄がなお北方に在る今日の宋にとって、東南に安住することは許されないとして、荆襄を根拠地とすべきと結ぶ。