劉嶸、時政七策を上奏(下)
- 前篇からの続き。第六策「宗室の賢才を選び封建任使す」:黄潜善・鄭慤らが皇族を疎んじ嫌疑をかけ続けたことを批判し、親疎を問わず賢才の皇族を各地に配し、朝廷の藩屏とすべきと説く。
- 第七策「紀綱を存して国体を立つ」:四つの具体策を挙げる。(一)文武の序列を守ること。将帥を過度に朝廷の内議に関与させれば、軍への遠慮から政策が歪むとし、漢・唐の将臣登用の先例を引く。現在の数名の将に頼りすぎている状況を憂う。(二)朝儀・官制上の序列を厳格に保つこと。武臣が大臣に対等の礼を取るような風潮を戒める。(三)浮華・軽薄な言辞に流されず、篤実な人物を重用すること。王安石以来の「談論を尊び実行を軽んじる」風潮が士風を損ねたと批判し、靖康年間に節を曲げた顔博文のような人物を戒めとすべきと説く。(四)号令・法度の信を守ること。澶淵の盟を百二十年守った契丹の例と、宣和年間に王黼が一方的に盟約を破棄し金の侵攻を招いた例を対比し、信義の重要性を説く。
- 末尾では、天変(星変・彗星・日食)が相次いでいることや、行在周辺の民が疲弊し離散している現状を憂え、宗澤が晩年に果たせなかった北伐の遺志を継ぐべきこと、劉豫を先に討って金の後ろ盾を断つべきことなどを重ねて訴え、自らを使者として偽斉へ送り込む献策(酈食其や唐儉の故事に倣う)まで申し出て、上奏を締めくくる。
諸将・地方官の異動
- 孟庾は姚榮の兵四千を率いて建康府へ向かった。
- 朱勝非は江州に左遷されていた劉紹先を冷遇していた旧怨から、その兵権を削いで福州兵馬鈐轄に転じさせた。王冦・趙琦の軍も張浚・楊沂中の指揮下に再編された。
- 楚州の祝友は劉豫に叛帰し、偽斉の京西提点刑獄牛臯(後に岳飛配下で活躍する牛皋)が宋に投降した。
両宮還御を求める詔(再掲)
- 十一月五日、忠義の士による献策を募る詔が改めて出された。
- 廬州寿春府鎮撫使王享が劉豫への内応を図ったが、巨師古がこれを捕らえ行在へ送った。