三朝北盟會編炎興下帙 高宗 建炎四年 1130年

六宮還御と諸将の動き

  • 隆祐皇太后一行が処州から帰還した。劉光世は鎮江府へ退き、張俊は援軍要請に応じなかった。

李成一党、江州を攻める

  • 李成配下の馬進が江州を攻めた。知州姚舜明は統制劉紹先の堅守策を採ったが、光州鎮撫使呉翼は光州放棄後に李成の軍に投じ、江西を狙う勢力を強めた。

李回、同知枢密院事に

  • 六宮を扈従した李回が枢密院の要職に任じられた。

岳飛、部将傅慶を処刑

  • 傅慶は武勇に優れたが岳飛を軽んじる言動があり、劉光世への内通の疑いをかけられた。射術の褒賞に不満を示したことをきっかけに、岳飛は軍紀粛正のため傅慶を斬った。

張浚、秦州へ撤退

  • 陝西の敗戦を受け張浚は秦州へ退いた。

涇原の離反

  • 張中孚・趙彬らは劉錡を追い出し金に降った。

王善残党の抗争

  • 王善配下の残党が祝友を頭領として滁州付近で略奪を続けた。

翟崇・李興、金軍を破る

  • 翟興の子翟崇と部将李興は絳州垣曲県などで金軍を破り、多くの捕虜と物資を得た。

秦檜、行在に至り礼部尚書に

  • 秦檜は漣水軍から行在へ送還され、范宗尹・李回の推挙により禮部尚書に任じられた。妻の甥王映が秦檜の跡継ぎとして養育していた熺と対面し喜んだという逸話も記される。

馮長寧、劉豫に投降

  • 陳州の馮長寧は朝廷との連絡が絶えたため劉豫に降り、什一税法を導入した。

張榮、鼉澤湖で敗れ通泰州へ

  • 梁山濼の水賊出身の張榮は茭城を築いて抗戦していたが、金軍の総攻撃を受け陥落し通泰州へ移った。
  • 岳飛は泰州守備が困難と判断し、江陰軍へ撤退した。

陝西方面のその後

  • 張浚は興州へ退いた。楊晟の進言により陝西放棄の方針が固まり、王庶の進言も容れられなかった。

楚州陥落後の混乱

  • 楚州陥落を受け行在は動揺し、百司を一時解散した。
  • 祝友一党は江北から瓜歩を経て馬家渡へ渡ろうとしたが劉綱の防備に阻まれ、混乱の中で徐々に渡江し新市薛店で略奪を働いた。

徐文、朝廷に帰順

  • 元は登州の徐聚・徐文の一党だったが、内紛を経て徐文が朝廷に帰順し武官に任じられた。

各地の陥落と抵抗

  • 金は秦州・通州を陥落させた。知通州事呂紳は逃走した。
  • 王彦は房州で桑仲軍を破り、桑仲は襄陽へ退いた。王彦は金・均・房三州の鎮撫使となった。

崔増、招安に応じる

  • 太平州攻撃に失敗した崔増は各地を転戦の末、呂頤浩の招安に応じた。

張俊、江淮招討使に

  • 十二月、張俊が江淮招討使に任じられた。

杜充、金に降る(節要の評)

  • 節要は、太原を守り抜いた保正䠴(音じん)の八ヶ月籠城と、それに引き換え将相の権を持ちながら容易に金へ降った杜充とを対比し、忠義の士と叛逆の徒との落差を厳しく批判する。