改元の大赦
- 正月一日、建炎五年を紹興元年と改める大赦の詔が発せられた。詔では戦乱による民の困窮を憂い、宣王・光武の故事になぞらえて中興を期す旨が述べられた。
- 太上皇帝(徽宗)への遙拝の表も併せて奉られた。
李允文と張用軍の内紛
- 李允文は張用軍の粛清を図ったが密告により失敗し、張用は親兵二千を率いて城中に留まった。
馬進、江州を陥落
- 馬進は百日に及ぶ包囲の末、飢餓に苦しむ江州を陥落させた。知州姚舜明・統制劉紹先は脱出し、馬進は寄留の官員を多数殺害した。李成は降人の識別のため榜示を出し、生業の再建を許した。
張俊、江淮招討使として出陣
- 李成の勢力拡大を受け、朝廷は張俊を江淮路招討使に任じた。岳飛も洪州へ向け出陣し、その途上で軍紀を乱した母方の叔父を自ら手にかけた逸話が記される。
- 曹成・李宏は鄂州の李允文の招安に応じたが、糧秣の欠乏から再び離反の兆しを見せた。
翟興、金軍を破る
- 金軍が西京付近に迫った際、翟興は将彭玘に井谷で伏兵を用いさせ、金の諸郎君級の将を捕らえる大勝を得た。
秦檜、参知政事に
- 秦檜が参知政事となり、宰相就任への野心を示す発言も記録される。
祝友、招安に応じる
- 新市薛店にいた祝友は劉光世の招安交渉の末、受け入れて楚州知州となった。
張榮、通州で孤立
- 鼉潭で敗れた張榮は通州に籠もったが、糧が尽き人肉を食するほどの窮状に陥った。
馬進、筠州・臨江軍を攻略
- 馬進は張俊との対峙の末、筠州・臨江軍を陥落させたが、李成に献じた祥瑞の品を「私を試すのか」と一蹴された逸話が記される。
国奉卿・趙瓊、金の舟船を襲撃
- 楚州陥落後、国奉卿と趙瓊は金の輸送船団を清河口で襲い、戸部尚書の印などを奪取した。船中には王善(王大郎)を名乗る者もいたという。
桑仲、鎮撫使に
- 桑仲は京西で飢餓と金州兵への敗戦を経て、朝廷より襄陽府・鄧・随・郢州の鎮撫使に任じられたが、王彦幕下の績觱はこれに強く反対する上申を行った(容れられず)。
淮東方面の戦況
- 達蘭は張榮を縮頭湖で攻めたが逆に大敗し、通州は張榮の手に帰した。
- 劉光世は「招納信寶」銭を鋳造して敵中の兵の投降を促す策を用いた。
- 李允文は知岳州袁植を殺害する事件を起こし、馬友は益陽県を占拠した。
陝西方面のその後
- 金軍は徳順軍に至ったが深入りを避け熙河へ転じた。張浚は劉惟甫の弾劾を受けつつ閬州に司を置いた。関師古・劉錫らが辛うじて岷・鞏・階城を守った。
興国軍の顛末
- 李成配下が興国軍を占拠し知軍李儀を捕らえようとしたが、儀は逃亡先の寺で殺害されかけつつも生還し、下手人を捕らえて処罰させた。
馬進、江州を再度失う
- 張俊は奉新樓子荘で伏兵を破り、江州を奪還した。上は張俊に激励の親筆を与えた。李成軍にも投降を勧める詔が発せられた。
その他
- 興国軍知事に陳彦が任じられた。
- 通州は劉光世配下の康渕により奪回された。