呂頤浩、饒州に駐屯
- 九月一日、建康府路安撫大使呂頤浩は李成の江州侵攻を受け、饒州四望山に駐屯した。
徳安府の攻防
- 馬友軍は徳安府を数か月囲んだが、知府陳規は籠城しつつ密貿易を装って偽りの招降策を仕掛け、いったんは緩めたものの馬友は再び猖獗した。
- 趙延寿(趙不忙と号す)の侵攻も陳規が撃退した。
岳飛、泰州に入る
- 岳飛は通泰州鎮撫使として泰州に入り、軍紀を厳しくして民心を得た。
馬進、興国軍を占拠
- 馬進は黄州から興国軍に侵入し、略奪を伴わずに城を占拠した。
王彦、桑仲軍を撃退
- 金均房州安撫使王彦は、桑仲配下の平仲軍を追って竹山県まで進んだ。
- 桑仲は三十万と号する大軍で金州白土関に迫ったが、王彦は寡兵で決死の抗戦を行い、辰から酉まで戦って賊軍を大破し、二百余里追撃した。
富平の戦いと張浚の失策
- 張浚は陝西五路の兵二十万を集めて富平に進軍したが、幕僚劉子羽らの強硬論に押され、慎重論を唱えた曲端・王彦・楊晟らの意見を退けた。
- 金将羅索は寡兵を装って油断を誘い、鄉民の小寨を突破口として官軍を混乱させ、王師は大敗した。張浚は敗因を趙哲一人に帰した。
- 世評は張浚を諸葛孔明に比する声もあったが、幕客はこれを「戦術面では劣る」として謙遜した。
楚州の陥落と趙立の壮絶な戦死
- 金軍は降人衡進の献策により楚州北壁を四十余日攻め続け、砲撃で趙立は股骨を折られて戦死した。趙立は日頃から金人を仇敵とみなし、巷戦の備えまで指示していたため、後世「その忠義は張巡・許遠に勝る」と評された。
- 城中は籠城が長期化し、食糧が尽きて草根まで食い尽くす惨状となった。左彬など最後まで妻を守り戦って斃れた者も伝えられる。
- 姓氏忠義伝によれば趙立は元は徐州の軍人で、楚州守備の功により観察使を追贈され、開府儀同三司を贈られた。
秦檜、金より脱出
- 御史中丞秦檜は張邦昌擁立に不同意であったため金へ連行されていたが、達蘭の信任を得て随行し、楚州陥落の混乱に乗じ梢工孫静の助けで小舟にて脱出、漣水軍丁&KR1124;水寨にたどり着いた。当初は間諜と疑われたが、酒売り王秀才が身元を証明し保護された。
王闢、王彦に降る
- 曹端を殺した王闢は各地を転戦の末、王彦の説得を受け降伏した。後に興元府で腰斬に処された。
李彦先の最期
- 韓世忠配下の李彦先は楚州陥落の際、金軍の攻撃を受け一族もろとも淮河で全滅した。
その他の動静
- 韓世清は宣州に駐屯した。
- 十月一日、張浚は富平敗戦の責任を環慶路経略使趙哲に負わせ処刑し、五路の勤王兵を解散させた。
- 孫恂が環慶路経略使代理となったが、統制官を斬ったことに反発した部将慕洧が環州を挙げて西夏に降った。