劉豫、金の傀儡皇帝として北京で即位
- 二十七日、金は劉豫を北京(大名)に立て国号を「斉」とした。冊文には、宋が盟約を破り金に敵対したことを理由に劉豫を新たに封じるとある。
- 九月九日、劉豫は皇帝を称し大赦を布告した。西京留守高慶裔らを副使として印綬を授けた。
- 節要によれば、当初は金の元帥ニヤンハン腹心の高慶裔が、達蘭(タラン)に先んじて功を独占しようと劉豫擁立を進めた。景州・東平など各州の民に推戴の願状を出させ、金主の裁可を得て劉豫を立てた。劉豫は東平・大名を拠点に募兵し、子の劉麟らを要職に就けた。
太行の義士、金軍を破る
- 太行の義士石子明が漢軍万戸韓常と真定烟脂嶺で戦い、千戸劉慶餘を砲で殺すなど大勝した。金の軍制(万戸・千戸・百人長の位)についても付記される。
崔増、太平州から撤退
- 崔増は太平州攻撃を続けたが、ついに攻略できず退いた。
岳飛、通泰州鎮撫使を拝命
- 岳飛は五月の靖安鎮の戦功により通泰州鎮撫使を授かった。
桑仲、襄陽府を陥落
- 京西の賊将曹端らの軍が千秋の指揮下で桑仲軍と戦うが敗れ、統帥の混乱に乗じて桑仲が襄陽を占拠。守将千秋は敗走し、部将王闢が曹端を殺害するなど内紛が続いた。
李允文、鄂州安撫使となる
- かつて謫居していた李允文が張浚の縁で登用され、宗印の軍を引き継いで鄂州路安撫使に任じられた。
- 張俊も検校少保・定江昭度節度使に任じられた。
隆祐皇太后、行在へ帰還
- 十日、隆祐皇太后が処州から行在へ戻った。護衛の将たちが六宮を守った。
- 王&KR0645;の軍は馬家渡の敗走後、潰兵として信州に留められた。
楚州・揚州の攻防と諸将の敗死
- 薛慶は揚州で金軍と戦い敗死し、郭仲威は揚州を放棄して興化へ逃れた。
- 金の烏珠(ウジュ)軍は楚州攻略のため兵力を集中し、達蘭が寿河から合流した。
- 姓氏録によれば薛慶は建炎三年に高郵軍を拠点とし、後に楚州鎮撫使となったが、揚州救援中に力戦の末に戦死した。
- 高郵軍も金軍に落とされ、留守の国奉卿は楚州へ退いた。
張用軍、鄂州へ帰順
- 張用軍中で内紛が続いたが、妻の一丈青が兵をまとめ、鄂州の招安司へ投じた。
趙立、楚州で孤立
- 趙立が起こした趙瓊寨の民兵が離反気味となり、援軍要請も実らず孤立を深めた。
その他の除授・処分
- 李邦彦・呉敏・李綱がそれぞれ旧官に復した。
- 張琪は襄安鎮へ移屯した。
- 范宗尹による官吏の異動人事(王時雍・徐秉哲らの復職)が公議されぬまま行われ、批判を招いた。
翟興、金軍を撃退
- 陵寝を侵す金軍に対し、翟興は子の翟&KR0008;と趙林を派して永安軍で撃退し、澠池県まで追撃した。翟興は河南府孟汝唐州の鎮撫使に加階された。翟興はまた各地の山寨勢力と密かに連携し、朝廷の統制下に組み入れた。
孔彦舟、潭州を占拠
達蘭、趙瓊寨を招撫
- 達蘭は楚州・高郵攻略に際し趙瓊寨が援軍とならぬよう使者を送ったが、寨側は使者を殺害し抵抗の意を示した。