程昌禹、蔡州から鼎澧へ
- 程昌禹は建炎元年に尚書吏部郎官となり、後に蔡州を守った。建炎二年に金軍が汴京を破り軍が四散すると、流民を集めて軍を組織し、賊将張用・王善らを撃退した。
- 三年、杜充が留守となり張用配下の賊が淮寧を包囲したが、程昌禹は敵の来襲を見越して伏兵を用い、これを破った。
- 六月、杜充の召還により留守判官となり京城に入る。城内の治安維持のため通貨制度や警備を改めようとしたが、副留守郭仲荀の同意を得られなかった。
- 七月、蔡州の父老が程昌禹の留任を訴え、杜充も彼を蔡州へ戻した。八月、旧知の唐州守が招いた賊将王民らの軍が迫ったが、これを撃退した。
- 閏八月、賊将楊進(沒角牛)が十余万で真陽に迫った際、程昌禹は賊に糧を与えることを拒んで撃退した。
- 九月、金軍の渡河に備えて出兵を願い出るが、十二月には敵の大軍に包囲された。守りを固めて敵を油断させたのち反撃し、多数を捕らえて撃退した。
- 建炎四年二月、召還の命が出たが、勤王の諸軍が解散となり、代わりに鼎州・澧州の鎮撫使に任じられた。
鎮撫使制度の成立
- 建炎四年、京西・湖北・淮南などの州軍を鎮撫使の管轄に分けることが定められた。范宗尹の建議による。
- 五月、参知政事范宗尹らが分鎮の詳細(税制、官吏任免権、軍事指揮権などを各鎮撫使に委ねる案)を上奏し、聴許された。
藩鎮論(閒居録より)
- 宣和以来、宦官童貫や蔡攸が軍政を握り、辺境の将帥に小人が多く用いられたため軍は弱体化した。
- 靖康の初め、河朔諸郡に世襲の鎮将を置く議があったが実現せず、建炎年間になってようやく藩鎮(鎮撫使)の制が定められた。しかし各鎮の規模は不揃いで、李成・孔彦舟・劉綱など多くの鎮撫使が離反・逃亡し、うまく機能しなかった。桑仲のみが宗尹の縁者として広大な地を保持したが、後に部下に殺された。
邠州の敗戦(節要より)
- 金将薩里罕が高原に布陣し、羅索・哈芬が先に戦って一時敵を退けたが、やがて薩里罕の軍が盛り返し官軍は敗れた。薩里罕は恐怖のあまり号泣したため、以後敵中で「哭啼郎君」と呼ばれた。
六安軍の攻防
- 二十二日、六安軍知軍の辺某は金軍に降っていたが、金軍が民を北へ連行しようとする噂を聞き、土官李六使らと謀って金軍を殺害した。
- 二十四日、辺某は城を放棄。混乱に乗じて配下の洪某が城内を掠奪・放火した。李六使は後に李成軍に敗れ寿春境で殺された。
戚方の降伏と処刑
- 戚方は湖州安吉県を侵したが、張俊の招きに応じて降伏した。張俊は面談で忠義を説いたが、戚方配下の「三哥哥」なる者が反逆の意志を証言され、張俊はこれを斬った。戚方自身は先に正式官に任じられていたが、賭博で得た黄金の逸話とともに、当時「官職を望むなら招安を、富を望むなら胡ざまをせよ」と揶揄された。
柔福帝姫をめぐる争い
- 韓世清は蘄州で劉忠を破り、柔福帝姫を保護した。しかし朝廷が内侍蒋堯輔を遣わして帝姫を迎えようとしたところ、韓世清は自ら護送する功を望んで従わず、徽州に駐屯するよう命じられた。
- 韓世清配下の馬吉は旌徳・太平の間で略奪を行ったが、韓世清の追撃を受けて敗れ、劉光世に招安された。
崔増、太平州を攻める
- 崔増は焦湖の水寨を破った後、金軍の江北駐留を知って太平州を攻めた。知軍州事郭偉が力戦して防いだ。荻港巡検の王宗が弓で敵将二人を射倒すなど奮戦し、崔増は城を落とせず退いた。
張用軍の内紛と招安
- 張用は淮西で食糧に窮し徳安府へ移った。魚磨山寨で軍が乱れ、統領馬老爹が部下に殺される事件が起きたが、張用はこれを不整な軍紀のためと嘆いた。
- 鄂州路安撫使李允文が招安を試みたが、張用は一度受けた後に離反し略奪を働いた。曹成はこの経緯に怒り、関与した部将を処断した。
郭仲威、平江府から出奔
- 郭仲威は平江府の民を騒がせ、朝廷が張俊を派して罪を問おうとすると、これを察知して興化県へ逃れた。朝廷は真州鎮撫使に任じたが、巨師古が杭州に、薛成が婺州に駐屯した。