三朝北盟會編炎興下帙 建炎三年 1129年

李成、招安を受け入れず再び反す

  • 李成は泗州で帰順を申し出て歓待を受け、代表として張琮を行在へ遣わした。宰相呂頥浩は張琮を秉義郎、さらに承務郎に取り立てて李成の同行帰参を図ったが、張琮が再び李成の陣に戻る前に李成は既に離反していた。

開封留守の困窮と間諜事件

  • 京城副留守郭仲荀の在任中、開封は深刻な食糧不足に陥り、市中では粥の売買を巡る争いや強奪が横行し、郭仲荀は連日厳しい処刑を行った。後任の京城留守程昌㝢は、旧知の進士陳味道が敵の檄文を携えた間諜であることを見破り、これを凌遅に処した。

金軍の再侵攻と胡寅の失脚

  • 金軍が淮東・淮西・西路の各方面から侵攻し、江淮・両浙は動揺した。かねて時政を痛烈に批判する上書を行っていた起居舎人胡寅は、宰相呂頥浩の不興を買い罷免され、以後直言する士は口をつぐんだ。
  • 皇帝は平江府へ移り、杜充を建康行宮留守として王燮・韓世忠らの軍を統括させた。楚州・漣水で活動していた水賊邵青は招安を受け、沿江措置使司水軍統制に任じられた。皇帝はさらに杭州へ戻り、周望が荊湖江浙宣撫使として平江府を守った。

二十四日庚午 李成、滁州を占拠

  • 金軍侵攻の報に接した知滁州向子伋は琅邪山寨に拠って自衛を図り、当初は泗州の李成に共同防衛を持ちかけたが、危険を察して受け入れを拒んだため、李成は激怒して滁州を攻め占拠した。

「節要」が語る金の内政と対宋政策の批判

  • 「節要」は、金が河北・河東の行政区画を改め、旧領での漢語の使用や旧服装の着用を厳しく禁じるなど統治を固めていた様子、烏珠が尼堪・鄂勒歓に江南への渡江進軍を進言し許可された経緯を記す。
  • 続く長い論評は、靖康以来の宋の対金政策を「和」と「退」の失策として総括する。靖康の和議で兵を退かせたことが金の再侵攻を招いたこと(失於和その一)、開封陥落時に決死の抗戦も籠城もせず皇帝自ら出向いたため士気を失わせたこと(失於和その二)、建炎三年の揚州で疲弊した尼堪の少数軍を迎撃せず潰走したこと(失於退その一)、烏珠の江南侵攻に際しても水戦・歩兵に利のある地の利を活かさず退いたこと(失於退その二)を挙げ、澶淵の役で退かず戦った真宗の故事と対比して痛惜した。

各地の帰順と人事

  • 淮東で猖獗を極めていた靳賽は劉光世の招安に応じ帰順した。かつて東平府陥落時に逃亡した権邦彦は、責任を問われつつも知江州に復帰した。
  • 皇帝は一時明州への親征を計画したが、呂頥浩の献策で杭州に戻ることとなった。御史中丞趙鼎の諌めもあり、市中の混乱を経て杭州への帰還が決まった。韓世忠は鎮江府に駐軍し江防にあたった。范宗尹は参知政事に任じられた(靖康の和議推進の過去を批判されていたが再登用された)。
  • 閭勍は宗廟の神御を奉じて濠州へ向かったが、知州孫逸は「王臣とはいえ面識がない」として入城を拒み、望拝の礼のみで通過を許した。

十月十五日庚寅 李成、琅邪山寨を陥落させ向子伋を殺害

  • 向子伋は琅邪山寨に籠城し防備を固めたが、堰の築造は豪雨で失敗し、水不足と食糧欠乏に苦しんだ。李成軍は鴉嘴山を占拠し柴薪で堀を埋めて城壁と同じ高さにし、遂に山寨に突入した。向子伋は捕らえられ、密使を出して急を告げたことが露見して州県の諸官とともに殺害された。「遺史」は李成の軍紀が意外にも整然としていたこと、「一将功成りて万骨枯る」の句を吟じたという逸話を伝える。

その他の動静

  • 淮陽軍を制圧していた郭仲威は、杜充を恐れて転戦の末、周望に投降し統制に任じられた(「郭大刀」と呼ばれた)。二十二日丁酉、王彦は興元府に駐軍した。二十三日戊戌、金軍は寿春府を陥落させ、烏珠は大軍を江上へ進めた。