三朝北盟會編炎興下帙 建炎三年 1129年

張浚、興元府巡幸を上奏し諸葛孔明を祭る

  • 張浚は興元(漢中)が天下の要地であるとして皇帝の西幸を上奏し、六路の兵と両川の兵糧、荊襄・秦隴との連絡による国家再興の構想を説いた。興元に至った張浚は幕客王以寧に文を作らせ、諸葛孔明の祠に自らの憂国の志を告げ加護を祈った。

二十五日庚子 金、黄州を陥とし趙令峕死節す

  • 張用の軍が淮上に大軍を構えていたが、金は精騎で急襲してこれを潰走させ、そのまま黄州へ進撃した。知軍州事趙令峕は急報を受けて武昌から夜半に渡江して防戦にあたったが、衆寡敵せず城は陥落し、令峕は捕らえられた。金は投降と改衣を迫ったが、令峕はことごとく拒んで罵り続け、鉄鞭で打たれたのち殺害された。都監王達・判官呉源ら多くの官吏・軍民も殺された。
  • 後に地元の父老・士民は令峕の忠烈を顕彰する廟の建立を朝廷に願い出、張浚が上奏してこれが認められた。事件の詳細な目撃証言(金軍の毒殺未遂の逸話を含む張遇との対峙の話は前年のもの)や、彼が靖康以来幾度も黄州を守り抜いた実績も併せて記録されている。

二十六日辛丑 金、黄州から渡江し洪州へ

  • 金軍は黄州の岸辺で民家を解体して筏を作り、大冶県経由の近道で洪州方面へ進んだ。江州に駐軍していた劉光世は統制王徳の報告を受けたが、慎重を期して出兵しなかった。

開封の窮乏と各地の防備

  • 京城留守程昌㝢が開封に入ったが、倉廩は空で兵士は野菜で飢えを凌いだ。皇帝は親征の詔を発し、郭仲荀を浙東宣撫使として越州に、傅崧卿を浙東防遏使として婺州に駐屯させた。

岳飛、長蘆九里堽で李成軍を破る

  • 滁州を拠点とする李成討伐に向かった王燮の輜重は、金軍の別働隊五百騎の奇襲を受け崇福禅院で掠奪に遭ったが、援軍の岳飛が九里堽で敵騎を迎撃しこれを撃滅、拉致されていた人々を救出した。

十一月乙巳朔 韓世清の擁立未遂と濠州の交代

  • 蘄州に屯する韓世清は、金軍が黄州から興国軍へ渡江したとの報に動揺し、蘄州鈐轄趙令俊を強引に擁立しようとしたが、令俊自身が固辞し、知州甄采らの制止もあって沙汰止みとなった。
  • 知濠州孫逸は防秋の急務を理由に建康府へ稟議に赴くとして州印を路分都監張宗望に委ね、後任の李玠が着任するまでの間、張宗望が権知州事を務めた。