三朝北盟會編炎興下帙 建炎三年 1129年

二十日丙寅 隆祐太后、洪州に到着

閏八月一日丁丑朔 呂頥浩・杜充の拝相

  • 呂頥浩は尚書左僕射同中書門下平章事、杜充は尚書右僕射同中書門下平章事にそれぞれ任じられ、いずれも御営使を兼ねた。王綯が参知政事、御営副使となった。皇帝は辞退する呂頥浩に対し、孟子の言を引いて天下を担う自負を持って任にあたるよう求める詔を下した。
  • 潰兵輔逵は楚州・漣水一帯で乱を働いていたが、淮南招撫使王燮による招安に応じ、南寨を攻略した後に投降した。

十四日庚寅 密州陥落、宮儀敗走

  • 宮儀は夏以来金軍と一進一退を続けていたが、金軍の陽動策により油断を誘われ、馬歩の総攻撃を受けて大敗した。宮儀・劉洪道は九仙山、さらに海州・楚州へと敗走し、郭仲威にも敗れて真州に至った。約定通り密州は李逵・呉順によって金に降された(李逵は後に呉順に殺された)。宮儀は真州で戦功により転官を許された。劉洪道は帰参後、金に投降していた向大猷の罪状を明らかにしこれを斬った。

胡寅、万言の上書を呈す

  • 起居舎人胡寅は、閏八月以降わずか半年の間に朝廷の方針(江寧堅守・巡幸決定・南昌への皇太后一行派遣)が二転三転したことを憂い、建炎以来の失政を総括する長大な上書を行った。
  • 胡寅はまず、皇帝が即位後ただちに二聖奪還を図らず、南巡して時を空費し、金軍の侵攻に無策であったこと、揚州陥落や苗劉の乱など人心を失う失策が相次いだことを、少康・周宣王・句践・光武帝ら中興の賢君の故事と対比しつつ列挙した。
  • そのうえで当面の急務として「修政事・備邊陲・治軍旅・用人材・除盗賊・信賞罰・理財用・核名実・屏佞諂・去奸慝」の十事を挙げ、特に政事・辺備・軍旅の三点を詳論した。
  • 修政事については、号令が朝令暮改で信を失っていること、賞罰が功罪に見合わず綱紀が緩んでいることを『春秋』の故事を引いて批判し、早期に方針を定めて動揺なく実行すべきだと説いた。
  • 備辺陲については、淮甸は江南の「唇」であり、これを失えば江南も危ういとして、梁の滅亡やき国の油断の故事を引き、淮南の防備充実と流民の懐柔を強く求めた。
  • 治軍旅については、選将・蒐練・教閲の三点を挙げ、無能な将に大軍を委ねる危うさ、老弱・遊惰の兵を淘汰する必要、平時からの訓練の欠如を『春秋』の記事に照らして論じ、漢の高祖が韓信を抜擢した故事に倣うべきだと説いた。
  • 胡寅は結びに、これらの方策が実行されれば両宮の帰還と中興の実を上げられるとし、直言を求める皇帝の意に応えて臆せず上書した旨を述べた。