十六日癸亥 皇帝、罪己の詔を下す
- 皇帝は即位以来の失政を自ら四点にまとめる罪己の詔を発した。恢復の好機を逃したこと、揚州駐蹕時に将帥の統率を誤り金軍の侵入を招いたこと、潰散兵と避難民を安撫できなかったこと、苗傅・劉正彦の乱を招いたことを挙げ、直言の受け入れ・寛政・軍備充実による中興を誓った。
- 御史中丞張守はこれに応じ、皇帝が形式でなく実質をもって天を敬い改めるべきだと重ねて上疏し、二聖(太上皇・淵聖皇帝)の労苦を常に思い自らを律すること、天変を機に真に有能な宰相を選ぶべきことを説いた。
二十八日乙亥 磁州の陥落と各地の動静
- 杜充は淮南京東宣撫処置副使に任じられた。磁州では宗沢が去った後、守将殺害の内紛を経て権知磁州蘇珪が金への投降を主導し、金軍が入城した。
- 朝廷は皇太后・皇太子・六宮を江表(江西方面)へ移す詔を発した。金軍侵攻の防秋(秋季の防備)に備え、隆祐太后一行を七月下旬に南昌方面へ送り、皇帝自身は将士とともに前線にとどまる方針が示された。「遺史」は揚州の役での夥しい死者数と、この詔の背景を伝える。防江十六条の策を刑部が板行して公表したことについて、張守は機密保持の観点から五つの問題点を指摘した。
- 御前五軍の再編が行われ、御営使司五軍統制には陳思古・顔孝恭らが任じられた。王燮は靳賽との戦いに敗れた。
- 朱勝非は苗劉の乱を制止できなかった責を問われ提挙亳州明道宮に落職し、張澂も知洪州に落とされた。詔は馮道の故事を引き、危難に際して大臣が身を保つのみで社稷を扶けなかったことを厳しく非難した。
七月 山東・江淮の攻防
- 金の鄂勒歓・達蘭棟摩は濱州に屯し、尼堪は揚州から東平に戻り、済南の叛臣劉豫に東平府と河南諸州郡の統制を委ねた。
- 九日乙酉、閻臯・宮儀は濰州を放棄した。両者は金軍との攻防の末に敗れ、閻臯は舟を奪って朝廷に帰参したが、宮儀は密州へ転戦し、劉洪道とともに青州で降将向大猷を捕らえた。萊州の張成は当初朝廷に忠誠を示したが、後に金に降った。
- 潰兵の郭仲威は淮陽軍を占拠し、掠奪の末に楚州へ移動した。翟興は汝州で叛将王俊を破り、汝州を回復した。
- 十八日甲午、潰兵馬友は張用・曹成・李宏と袂を分かち、独自の軍勢を形成した。
二十一日丁酉 張浚、川陝へ赴く
- 張浚は劉錫・趙哲・王彦らの軍を率いて川陝方面へ向かった。王彦は苗劉の乱の際に御営統制への就任を拒み忠義を示した人物として評価され、洮州に赴任することとなった。
- 杜充は同知樞密院事に任じられた。制詞は杜充の武略と両京守備の実績を称え、たびたびの辞退にもかかわらず登用の意志を示した。
二十六日壬寅 隆祐太后、洪州へ
- 隆祐皇太后は宗廟・省部百官とともに洪州へ移り、地方の政務を洪州の三省樞密院で決裁することとなった。皇帝は軍事を統括するため行在にとどまり、李邴・滕康がそれぞれ三省樞密院の権知・同知として洪州の政務を統括することとなった。
八月 劉光世の江州駐軍と各地の帰順
- 韓世忠配下の王徳が功を焼き私怨から陳彦章を殺害する事件があったが、後に韓世忠の奏で復職した。劉光世は江州に駐軍した。
- 潰兵劉文舜は舒州に屯したが、通判権知州事鄭厳の懐柔で秩序を保った。王庶は延安府失陥の責を問われ、六路軍馬節制の任を解かれた。