九日丙戌 江寧府を建康府と改称
- 江寧府は名都・要地であるとして建康府と改称された。張浚は淮南の撫諭に赴くこととなった。
四日己丑 張浚、薛慶に捕らわれる
- 張浚は樞密の職として淮南の賊軍を撫諭すべく高郵軍に至ったが、出迎えた薛慶に「これが樞密であるはずがない」と疑われて捕らえられた。薛慶配下の王存の説得で殺害は免れ、後に解放されて樞密院事に復した。この一件により張浚はいったん罷免され提挙杭州洞霄宮とされたが、後に復職した。
京西の翟興、楊進を討ち河南府を回復
- 京西北路総管翟興は汝州魯山県で楊進と交戦し、これを討ち取った。楊進没後もその残党は劉可を頭領に再結集したが、翟興は河南府を奪還し、永安軍の諸陵に参拝して将士を感激させた。翟興は配下の李興(孟州出身の義勇の士)の功を保奏し、武義郎兼閤門宣賛舎人に任じさせた。
京城留守杜充らの還闕要請
- 杜充・郭仲荀・藺整・呂勍らは京西の情勢がやや安定したとして皇帝の開封還幸を求めたが、認められなかった。劉洪道は京東路経略安撫制置使に任じられ、山東の諸将(李逵・宮儀・張成ら)には報国を促す勅書が下された。
八日癸巳 幸蜀論をめぐる論争
- 蜀への遷幸を献策する侍従があり皇帝も検討したが、御史中丞張守は東南こそ国家の根本の地であり、皇帝が遠く蜀へ赴けば奸雄の隙を生むとして、十カ条にわたる不可の理由を上疏した。翟汝文も荊南への遷幸に反対する疏を上げ、いずれも用いられなかった。
六月一日戊申朔 李成、楚州を包囲
六月癸丑 苗傅・劉正彦、建康府にて誅殺される
- 四月の勤王軍接近を受け、苗傅・劉正彦は淮南西路制置使への赴任途上で逃亡した。朝廷は韓世忠を江浙制置使として追討にあたらせ、まず与党の王世修・呉湛を誅した。韓世忠は建州浦城県漁陽駅で両将の軍を撃破し、劉正彦を生け捕り、苗傅は逃亡の末に商人を装って潜伏していたところを見破られ捕縛された。両名は建康の市で凌遅に処され、苗翊・苗竬らも処刑された。
七日甲寅 黄潜善・汪伯彦の正式処分
- 黄潜善は寧遠軍節度副使・永州安置、汪伯彦は江州団練副使・英州安置に処された。左司諌袁植は両者の罪を蔡攸・王黼に劣らぬものとして重ねて弾劾する上言を行った。
- 「林泉野記」は両者の経歴を詳述する。黄潜善は王黼の引き立てで累進し、靖康の勤王でも消極的な姿勢に終始、宰相となってからも内侍と結んで防備を怠り、揚州陥落を招いたとされる。汪伯彦も同様に梁子美・王黼の縁故で栄達し、勤王に消極的で、許景衡・宗沢の進言を退けて江防の機を逸したことが記される。
その他の人事・処断
- 裴淵は麾下の兵を率いて行在に至り韓世忠軍に編入された。張浚は江淮荊湖川陜宣撫処置使として便宜黜陟の権を与えられ、関陝の官吏に協力を求める詔が下された。杜充は宣武軍節度使に任じられた(楊進の死を知らぬまま観察使に加官する誤りもあった)。
- 御営平寇将軍范瓊は、靖康の変での金への協力や乱暴な行いが問題視され、苗傅・劉正彦の乱でも勤王に応じなかったことから、劉子羽・張浚・呂頥浩の謀により捕らえられ大理寺に送られて賜死となった。「姓氏録」叛逆伝はその経歴(金軍の使い走りとなり吳革を殺し張邦昌擁立に加担した経緯等)を詳しく記す。
- 劉光世は苗傅配下から離脱した韓雋(後の韓世清)を招降し、蘄州の秩序回復に協力させた。