二十一日癸酉~二十二日甲戌 馬伸、黄潜善・汪伯彦の罷免を求めて左遷
- 殿中侍御史馬伸は、黄潜善・汪伯彦が実権を握って以来、金・盗賊が勢いを増し国勢が衰える一方であるとして、還都反対派の処分、言路の閉塞(呉給・張誾・邵成章らの左遷)、両人による台諫の私物化、独自兵力の保持などを列挙して両名の罷免を求めたが、逆に自身が衛尉少卿に左遷され、世人はその豹変を嘆いた。
二十九日辛巳 李成、宿州を掠奪
- 京東河北路都大捉殺使に任じられていた李成は、宿州・泗州の同時占拠を企て、宿州に奇襲をかけて略奪・強制徴兵を行った。朝廷はなお李成を信頼し、鎧甲を与えて厚遇した。
謝亮、夏国への撫諭
- 夏が金の圧力に乗じて鄜延方面を脅かす動きを見せる中、経略安撫使王庶は毅然と応対して夏の動きを牽制した。朝廷は主客員外郎謝亮を夏国への撫諭使として派遣したが、王庶の対夏強硬策の進言は容れられず、結局夏軍に定辺を奪われる事態となった。
九月一日~三日 馬伸の死、丁進の再叛乱
- 王彦が行在に召還された。馬伸は先の弾劾により濮州監酒に落とされ、道中で死去し、天下はこれを憐れんだ。
- 丁進が再び反乱し淮西を侵したが、韓世忠に捕らえられ処刑された。降将段恩は世忠が旧知であったため助命され登用された。
杜充、京城留守に就任
- 宗沢の死去に伴い杜充が京城留守となったが、宗沢が築いた河北・河南の招撫体制を軽視し粛清を優先したため、河北の義軍勢力は離散し、招撫した群盗も再び賊化して各地を荒らした。
十二日癸巳 冀州の陥落
- 知冀州が守将李政の巧みな指揮で長く持ちこたえていたが、政の死後、防衛が破綻して陥落した。
十三日甲午 長安の再陥落
- 郭琰が長安を守っていたが、内紛(前任者王択仁との軋轢、同州義軍党松への処遇の失策)が響き、金軍に再び陥とされ、郭琰は城を捨てて逃れた。
陝西方面の指揮系統の混乱
- 王庶が陝西六路軍馬の節制、曲端が都統制に任じられたが、両者は不和で足並みが揃わず、二十日には賀師範の軍が八公原で金軍に敗れ、師範は戦死した。曲端はさらに援軍派遣を渋り、指揮の混乱が続いた。
范瓊、御前平冦前将軍に(苛烈な統治)
- 李孝忠討伐の功で昇進した范瓊は、真州で断腕・火刑など過酷な統治を行い、悪名を馳せた。
二十六日丁未 薛広、相州で戦死
- 宗沢の命で両河回復を目指していた薛広は、単独で渡河した後に相州で金軍と交戦し、敗死した。
十月 丁進(別人)投降、劉晏の疑兵の計
- 淮西で叛いていた別の丁進勢力に対し、劉正彦配下の劉晏が五色の旗を用いた疑兵の計で敵を欺き、戦わずして投降させた。
- 王彦は行在で黄潜善・汪伯彦に対し、両河の民兵の期待に応えて北伐すべきと直言したが、講和路線を推す両名の不興を買い、閤門宣賛舎人への軽い転任にとどめられた。その後も范瓊との不和から距離を置き、真州で謹慎した。
- 劉光世が上蔡駅口橋・新息県で李成を撃破し、首謀者の道士(陶先生)を捕らえて処刑した。高宗と黄潜善の間で、投降した李成配下の家族の扱い(処刑せず養済すべし)についての議論も交わされた。
- 金軍が開徳府・濮州へ渡河・侵攻し、韓世忠・范瓊・馬政らが応援に派遣された。馬政は清平で金軍に敗れ、行在に召還されて処分を受けた。一方、濮州を包囲した金の尼堪は、守将姚端の夜襲を受けて危うく難を逃れたが、姚端の抵抗の報復として濮州の民を皆殺しにした。
二十六日丁丑 范瓊の京師到着、翟進の戦死
- 范瓊が京師に到着した。一方、京城統制に任じられた楊進(元は招撫された群盗)が横暴な統治で民を苦しめたため、翟興・翟進兄弟がこれを討とうとして伊川の鳴皋山で交戦したが、翟進が流れ矢に当たり落馬して敗死した。
- 邵興が解州で羅索(ロソ)の軍を破り、その将を討ち取った。
陝西方面のさらなる混乱、絳州の陥落
- 金軍は慶源府周辺の義兵勢力を圧迫しつつ関中へ進出し、絳州も陥落した。王庶は渭州・慶州の兵と合流して金軍を渡河地点で挟撃しようとしたが、曲端や王似の非協力により実現しなかった。
中書侍郎(王慤)の卒去
- 黄潜善・汪伯彦の専横に対し一貫して直言を続けた中書侍郎(王慤)は、両名に疎まれながらも高宗の信任を保っていたが、志半ばで病没した。関連する記録は、その清廉さと諫言の姿勢を高く評価し、黄潜善らの専横を招いた朝廷の姿勢を批判する。