十二月 苗傅・劉正彦、隆祐太后を護衛して杭州へ
- 陝西出身の武人苗傅・劉正彦が兵八千を率いて隆祐太后・六宮を護衛し杭州へ移った。苗傅は御営都統制、劉正彦がその副とされ、劉晏の赤心隊もその麾下にあった。
十一月十二日壬辰 延安府(西城)、ついに陥落
- 延安府は正月に東城が陥ちて以来、西城が持ちこたえていたが、金は王庶・曲端の不和に乗じて総力を挙げて攻め、この日ついに西城も陥落した。王庶は援軍が間に合わぬまま曲端の陣に身を寄せたが、延安失陥の責を厳しく咎められ、制置使の印を取り上げられるなど屈辱的な扱いを受けた。
十五日乙未 濮州・開徳府・相州の相次ぐ陥落
- 濮州は知州楊粹中が三十二日にわたり抗戦したが陥落し、金軍に不服従を理由に城内は徹底的に殺戮・焼却された。楊粹中自身は金側にその忠義を惜しまれ助命された。
- 開徳府は、金軍が偽って知府の降伏を触れ回ったため軍民が混乱し、知府は落命、金軍侵入後は激しい報復殺戮が行われた。
- 相州は兵糧が尽き、知州代理の趙氏宗室が「降伏やむなし」と判断した上で、自ら家族を井戸に投げ込んでから自身も後を追うという壮絶な最期を選び、開城した。
二十二日壬寅 江都県での南郊祭祀と大赦
- 江都県に壇を築いて南郊の礼を行い、天下に大赦を発した。詔は二聖の帰還を願う切実な思いと、戦乱による民の困窮への痛惜を述べた。
- 邵興が絳州曲沃県で金軍を破った。
済南府・淄州、無抵抗で金に降る
- 知済南府劉豫は、味方の援軍と誤認して城門を開いたところ実は金軍であったため、そのまま投降した。淄州も同様の経緯(退却と誤認)で無抵抗のまま投降し、金軍は「秋毫も動かさずに投降した」として両州を特別扱いし、他州のような駐屯軍を置かなかった。
- 韓世忠が御営平冦左将軍として京東に、劉正彦が御営平冦右将軍にそれぞれ任じられた。
王倫、金への通問使に志願
- 王倫が二聖奉迎のため自ら金への使者を志願し、朝奉郎・大金通問使に任じられた。あわせて百官への訓戒の詔も発せられ、二聖奪還への協力と、国難に処する官吏の心構えが説かれた。
十二月五日 隆祐太后、杭州に到着
- 隆祐皇太后が杭州に到着し、州治を行宮とした。護衛の苗傅らは奉国寺に駐屯した。
十日庚申 東平府の陥落
- 権邦彦は部下の孔彦舟との不和もあり、金軍の攻撃に東平府を守り切れず放棄して逃れた。
十四日甲子 北京(大名府)の陥落と郭永の壮絶な殉節
- 北京留守張益謙・転運使裴億が動揺する中、提点刑獄公事郭永だけは士気を鼓舞して防戦を続けたが、ついに城は陥落した。郭永は降伏を拒み、金の尼堪(ニェンハン)の懐柔をも一喝して退け、最期まで金を罵り続けて処刑された。享年五十三。敵味方を問わずその剛毅な人柄を惜しむ声が上がったと伝えられる。
十五日乙丑 黄潜善・汪伯彦、正式に左右の宰相に
- 黄潜善が尚書左僕射、汪伯彦が尚書右僕射にそれぞれ正式に昇進し、両名による専権体制が確立した。
- 金軍が虢州を陥とした。
十九日己巳 李彦仙、陝州で金軍を撃破
- 李彦仙が烏嚕貝勒(ウルベイレ)の軍を陝州で破った。
二十一日辛未 金軍、青州に迫る、張守の京城撫諭
- 金軍が青州に迫った。殿中侍御史張守は、防秋(秋の金軍再侵への備え)の重要性を説き、淮河・長江防衛の具体策(斥候の配置、要地への将帥配置、兵糧・武備の充実)を上奏したが、黄潜善・汪伯彦は江淮の地の利を過信してこれを軽んじ、かえって張守を京城撫諭の任に出して遠ざけた。