正月 翟興、楊進と鳴臯山で戦い翟進戦死
- 車駕は揚州に駐留。翟興は京西北路馬歩軍都総管兼安撫制置使兼河南尹兼西京南北路招捉使に任じられ、鳴臯山下で楊進の軍と交戦した。弟の翟進が戦死し、翟興は朝廷に重臣派遣を求めたが、朝廷は改めて翟興自身にその任を委ねた。
- 京西留守杜充は王漢を遣わして翟興に楊進討伐を促した。楊進は河南府に拠り、鳴臯山北に塹壕を掘って長期戦の構えを見せ、皇帝・済王の帰還を偽って人心を動揺させようとしていた。杜充はさらに使者を送り討伐を命じ、翟興・翟崇父子は郷兵を率いて連日楊進と戦った。
六日乙酉 通問使の往来と汪伯彦の支度金問答
- 通問使の劉誨・王貺が金国から帰還した。祈請使の宇文虚中・楊可輔に続き、通問使劉誨・副使王貺が改めて派遣されていたが、出発が遅れたため朝廷が督促していた。
- 金は青州を攻め、十七日に及ぶ攻防の末に陥落させ、焼き払い殺掠した。知州魏某は殺害された。金はさらに濰州も攻め落とし焼掠して去った。
- 濰州の牛頭河土軍の閻臯は小教頭張成と共に濰州を占拠し、閻臯は自ら知州事を称し、張成を昌楽県知県とした。
十七日己丑 祈請使派遣をめぐる評定
- 祈請使李鄴・周望らが金国へ派遣されることになった。汪伯彦は使者への支度金支給を献策し、皇帝は自らの即位当初の窮乏経験を語りつつ、二聖帰還のためなら金帛を惜しまないとして厚く支給するよう命じた。金への国書は平文(四六文を用いない)とする方針も確認された。
邵興、潼関で金軍を破り虢州を回復
- 邵興は潼関で金軍を撃破し、勢いに乗じて虢州を回復した。李彦は邵興を虢州知軍州事に任じた。
杜充、張用らを攻めて敗れる
- 杜充が張用らを攻めたが勝てなかった。張用は相州湯陰県の弓手出身で、曹成・李宏・馬友と義兄弟を結び数十万の衆を擁した。王善(善)も濮州の乱民出身で同様の大軍を擁し、両者は留守宗沢・杜充の招安と離反を繰り返した。
- 杜充は張用の軍が最も強大とみて先制攻撃を図ったが、岳飛・桑仲・馬臯・李寳らの官軍は王善の来援を受けた張用軍に大敗し、李寳は捕らえられた。岳飛はもと張所の営効用で、王琦に従い太行山に赴いた後、京城留守司の杜充のもとで統制となった人物である。
劉洪道、青州知州となる経緯
- 濱州では葛進が乱を起こし官吏を殺し財物を奪っていたが、留守司は尚大猷を濱州知州とした。葛進はなお濱州に屯し、部衆に「趙王に永く背かず、金人に決して屈しない」の刺青をさせて軍紀を示した。
- 進士出身の劉洪道は先に金軍に捕らわれていたが、葛進に助けられ濱州に至り、青州の変事(安撫使曾孝序殺害)を受けて青州知州に任じられた。劉洪道は投降を望む兵に帰農を許し、乱の勢力を弱めた。
- 青州出身の崔邦弼も帰参し将官に用いられた。朝廷は劉洪道に奨諭の勅書を与え、軍中の統制と至公の姿勢を求めた。
張俊の上奏と徐州陥落
- 張俊は左蔵庫を鎮江府へ移すことを請うたが認められなかった。金は徐州を攻め陥落させ、知軍州事王復は殺された。将校趙立は防戦の末に負傷しつつ生き延び、軍民に推されて権知州事となり、武徳大夫兼閤門宣賛舎人・知徐州軍事に任じられた。
二十一日庚子 百官の家族退去禁止と張守の直言
- 辺境情報が相次ぐも朝廷に対策なく、宰相黄潜善・汪伯彦は動じなかった。避難のため家族を城外に移す官吏が増え、両宰相は人心動揺を恐れて百官の家族退去を禁じた。市中はかえって不安を増した。
- 張守は京師撫諭から戻り、金軍来襲を早く見越して備えるよう上奏し、皇帝を感動させて起居郎に任じられた。
張用・王善、陳州で官軍を破る
- 京城下で敗れた張用らは杜充への疑いから南下し陳州に至った。杜充は馬臯に追撃させたが、王善の来援を得た張用らは反撃して官軍を大破し、蔡河は屍で埋まった。
葛進、青州を攻める
- 金軍の破壊を受けて荒廃した青州の城下を劉洪道が復興させつつあったところ、葛進はこれに乗じて青州を奪おうとしたが、劉洪道は策を見抜いて拒み、北城のみを葛進に奪われるにとどめた。
韓世忠、宿遷から沭陽へ退く
- 韓世忠は淮陽に屯して山東の賊軍に備えていたが、金の尼堪が揚州を目指し東進、淮陽を避けて別動隊を先発させたため、韓世忠は宿遷まで退き、さらに金軍の追撃を受けて沭陽へ逃れた。「遺史」は世忠が夜半に密かに軍を捨てて塩城へ逃れ、軍が潰散したと伝える。残兵は李彦先・輔逵・李在らがそれぞれ収拾し独自の勢力となった。
淮南・鱗府晋寧、金に降る
- 淮陽の知軍某は金軍来襲に望風投降し、金は淮陽に入城後この知軍を連行した。折可求は麟州・府州・晋寧州の軍とともに金に帰順した。
三十日己酉 閻瑾、泗州を棄てて敗走
- 金軍が泗州に迫ると、閻瑾は誤認や混乱の末に敗走した。金軍は泗州から淮水を渡ろうとした。
二月一日庚戌朔 金、楚州を攻め朱琳降る
- 金は楚州を攻め、知州朱琳は西北門を開いて投降し、金軍を招き入れた。金の尼堪は東平から襲慶・徐泗を経て揚州侵攻へ向かった。「節要」によれば建炎二年秋に鄂勒歓が五馬山寨を破って以降の情勢がこの南進の背景にある。
- 「遺史」は、辺境急報が相次いでいたにもかかわらず黄潜善・汪伯彦が市中の動揺を禁じ、官民に城外退避を許さなかったため、二月朔の夜になって急遽御用の品を運び出す事態となったことを記す。翌朝、御舟が河岸に泊まり、住民は恐慌をきたした。
二日辛亥 閻瑾、部将姚端に殺される
- 洪沢鎮に退いていた閻瑾は部将の姚端に殺された。揚州では市民の逃亡が始まり、城中で火災が相次いだ。
三日壬子 金、天長軍を陥落させ車駕は鎮江へ避難
- 金軍が天長軍を包囲し、防戦に出た官軍は潰走した。内侍鄺詢の探索で金軍来襲が確実となると、皇帝は渡江を決意し楊子江を渡って潤州へ向かった。都統王淵・内侍康履らわずかな供のみが従い、市中は大混乱に陥り、宰相黄潜善・汪伯彦も自ら馬に鞭打って逃げた。混乱の中で軍民多数が城門で圧死した。
- 皇帝は瓜州鎮で小舟を得て渡江し、西津口の水府廟で剣の血を拭ったという。鎮江府知府事銭伯言が兵を発して迎え、皇帝は鎮江府治に宿泊した。杭州移駐を巡り議論が紛糾する中、禁衛の兵士が家族の安否を案じて動揺したが、朱勝非が慰撫し、扈従の功に報いる約束をして鎮めた。近侍の宗室として士霦が召され侍した。
- 金は揚州に入城した。市民は皇帝が既に渡江したと知ると、投降の態度を示し香花を備えて出迎えたが、金軍民の死者は数十万に及んだとされる。宗廟の祭器・国庫・軍需・富家の財貨は瓜州の閘門で渡江できず、多くが金軍の手に落ちるか焼失した。淮南節度判官庁公事の呉某が権知州として留まった。