三朝北盟會編炎興下帙 建炎二年 1128年

八日辛卯 韓世忠・閭勍の京西討伐

  • 金軍の渡河・侵掠に対応し、韓世忠・閭勍がそれぞれ兵を率いて京西方面の討伐にあたることとなり、宗沢ら諸将と連携させた。
  • 翟進は西京で烏舎・伊都の軍への夜襲に一度失敗したが、韓世忠軍の来援と合流し、暑気に苦しむ金軍を退けて再び西京を確保した。

長安・秦鳳方面の攻防

  • 反乱を起こし長安を占拠していた史斌を呉玠が捕らえ、長安・華州を回復した。曲端配下の呉玠が青渓嶺などで戦功を挙げる一方、涇原将曲端は自ら鳳翔の劉彦希を粛清するなど内紛も見られた。
  • 太行山の王彦は夜襲で金軍の趙固の砦を破り、金軍を退けた。

五月一日甲申朔 許景衡の失脚

  • 尚書右丞許景衡は、揚州駐蹕の危険を説いて江寧府への移転を進言したが、黄潜善・汪伯彦に阻まれ、失意のうちに宮祠に落とされて間もなく死去した。後に金軍が揚州に迫った際、高宗はその進言を思い出したという。

十五日~二十日 王彦、京師に帰参

  • 太行山で名を馳せた「八字軍」を率いる王彦は、太原方面への進撃を計画していたが、宗沢の勧めで兵を京師に集結させ、留守司の指揮下に入った。宗沢は王彦の忠勇を称え、京師防衛の要として活用した。

七月十日 帰朝官の召還

  • 諸郡に拘束されていた金からの帰順者(帰朝官)が過酷な扱いを受けている実情を高宗が憐れみ、行在への召還を命じた。

郭仲荀、宗沢の副として着任

  • 宗沢が招降した王喜・楊進・丁進らの大勢力を背景に渡河・二帝奪還を計画していることを警戒した黄潜善・汪伯彦により、郭仲荀が京城副留守として送り込まれ、宗沢を牽制した。

八月二日己酉 宗沢、車駕還京を重ねて上奏

  • 宗沢は京師の統治が軌道に乗りつつある実情、金の使者への厳格な対応、京畿諸県の防備体制の整備状況などを詳述し、なおも還京を求め続けたが、黄潜善・汪伯彦にことごとく阻まれ、憤懣を募らせていた。

八日乙卯 宗沢の死

  • 宗沢は建炎元年七月の着任以来、渡河・両河回復を志し、大名の郭永や北京留守杜充と連携し、王喜・張用ら群盗を招撫して大兵力を集め、京師の城壁・武備を修築して声望を高めていたが、黄潜善・汪伯彦に阻まれ続けた無念のうちに病没した。「林泉野記」「靖康小雅」などは、宗沢が磁州知州時代から金への警戒を説き続け、康王(高宗)の元帥府設立に尽力し、即位後も一貫して還京・北伐を訴え続けた生涯を詳述し、その死を惜しむ声が京師に満ちたと伝える。詩を引いて、黄潜善・汪伯彦の妨害こそが宗沢の忠節を挫いた元凶であったと厳しく批判する。
  • 宇文虚中が京城留守を代行することとなった。

中書侍郎(張愨)の卒去

  • 忠節を貫き黄潜善・汪伯彦の専横を面と向かって批判し続けた中書侍郎(張愨)が、志半ばで病没した。関連する記録は、黄潜善が終始その諫言を疎み、汪伯彦以下が黄潜善に迎合する中、独り正論を唱え続けた人物として悼む。

邵興、解州夏県で金軍を破る

  • 陝西方面で邵興が金軍を撃破した。

信王配下の馬山寨、陥落

  • 靖康元年冬から馬政・趙邦傑らが率いていた馬山寨(信王を推戴する義軍拠点)は、真定の内通者の密告により金軍の集中攻撃を受け、水源を断たれて陥落し、信王の消息も途絶えた。

宇文虚中、金への祈請使に

  • 宇文虚中が観文殿大学士・祈請使、楊可輔が副使として金へ派遣されることとなった。あわせて陝西・河北・京東路への赦(戦乱の被害への慰撫の詔)が発せられた。