三朝北盟會編炎興下帙 建炎二年 1128年

七日辛卯 中山府の陥落

  • 兵糧が尽き衰弱した中山府がついに陥落した。金軍は瘦せ衰えた守備兵を憐れみ、千人を選んで助命したという。

十九日癸卯 趙宗印の郢州駐屯、翟興・翟進の西京奪回

  • 河東置制使趙宗印が郢州に軍を移した。翟興・翟進兄弟は権京西北路置制使苗傅と共に福昌・三郷で金軍を破り、さらに龍門でも激戦の末に勝利し、洛陽(西京)を奪回した。

二十六日庚戌 洺州の陥落

  • 洺州は知州王麟が民衆に殺害された後も統制韓一の指揮のもとで金軍の包囲に耐えたが、糧食が尽きて開城を余儀なくされた。西山では李宗率いる山寨勢力がなお抵抗を続けた。

陝西・関中方面の攻防

  • 金の羅索(ロソ)が秦州へ進出したが、熙河将劉惟輔の夜襲でその将ハフン(哈芬)大王を討ち取り撃退した。しかし鄜延の将劉光烈は同州で羅索に敗れ、以後官軍は金軍を恐れるようになった。さらに張厳が羅索の伏兵に遭い五里坡で敗死した。呉玠が青渓嶺で金軍を破り、羅索の勢いを止めた。
  • 金の尼堪(ニェンハン)は、羅索への援護と韓世忠軍の接近を受けて西京を焼き払って撤退し、烏舎(オシャ)・伊都(イト)を河陽に配して韓世忠に備えさせた。

信王(欽宗の弟)、馬拡を派遣し出兵を求める

  • 河朔で挙兵していた信王(欽宗の弟)は、密使馬拡を行在に派遣して援兵を求めた。馬拡は道中の群盗を説得しつつ黄河を渡り、東京留守宗沢を経て行在に至り、高宗に信王の忠義を伝えた。高宗はこれに感激し、馬拡を河外兵馬都元帥府の要職に任じ、信王を都元帥に任命した。馬拡は迅速な用兵・監軍の中官排除・武具の充実などを求める上奏と、将士に忠義を促す檄文を発したが、黄潜善・汪伯彦の警戒により実際に与えられた兵力はわずかで、渡河も厳しく制限され、計画は事実上頓挫した。

金、徽宗一族を通塞州へ移送

  • 金は徽宗ら皇族を燕山府から千五百里離れた通塞州に移し、田地を与えて自活させた。北狩する欽宗が代州を通過した際、副使滕茂実だけが旧臣として出迎え、哀悼の意を示して忠節を貫き、金側もその人柄を重んじたという逸話が伝わる。

四月 韓世忠の帰還、宗沢の切実な還京要請

  • 韓世忠は京師で丁進の軍と不和を生じ、行在へ引き揚げた。
  • 東京留守宗沢は、士大夫の多くが保身に汲々とし、二聖の苦難や祖宗陵寝の荒廃、京師・両河の民の苦しみを顧みずに南方への遷幸を図っていることを痛烈に批判する上奏を重ねて行い、車駕の速やかな還京を訴え続けた。高宗は還京を告げる詔を発したが、実行が先延ばしにされ続けたため、宗沢はさらに切迫した上奏で機を逃さぬよう強く求めた。