十二日丁酉~十三日戊戌 房州の陥落、長安の陥落と唐重の殉節
- 金軍が房州を陥とした。翌日には金の羅索(ロソ)が長安を陥とし、安撫使唐重は戦死、総管楊宗閔・転運使桑景詢・提刑郭忠孝もそろって命を落とした。
- 修撰劉岑の墓誌などによれば、唐重は陝西防衛の要として同州を守り、金軍を一時撤退させるほどの名将であったが、朝廷の要請で永興軍(長安)へ転じた後、援軍を得られぬまま孤立無援の籠城戦の末に城が陥ち、自死あるいは討死したと伝えられる。生前、范致虚の遅滞した勤王策を厳しく批判し、関中への遷都・藩鎮設置・夏国との友好などを訴えていたが用いられなかった。楊宗閔は妻子を蜀へ逃した上で自らは職に殉じ、桑景詢は清廉な人柄で知られ、郭忠孝(程頤門下の学者)も金軍に捕らわれ死んだ。
- 内侍邵成章は黄潜善・汪伯彦の失政を弾劾する上書を行ったが、逆に高宗の怒りを買い吉州編管に処された。
- 御営使司左軍統制韓世忠が河陽府に、劉錫が滄州に配置され、東京留守宗沢を中心に河北方面への進撃が計画されたが、黄潜善・汪伯彦の建言により中止された。
- 翟興・翟進兄弟が伊川の皂礬嶺・驢道堰で金軍を破り、名を挙げた。
二十二日丁未 招降の詔、丁進の投降
- 高宗は、戦乱で流民化し盗賊と化した者たちに対し、今までの罪を問わず帰農を許す招降の詔を発した。夀春府から京東・京西を荒らしていた丁進(自称「丁一箭」)が京城留守司に投降した。
二十七日壬子 鄧州の焼き討ちと強制移住
- 金の尼楚赫(ニチュヘ)は鄧州の財物を根こそぎ徴発した上、駐屯継続が困難と判断し、城内の官民・僧道・農家を強制的に北方または城外へ移住させ、城に火を放った。混乱の中で離散した家族も多かったが、死者は比較的少なかったと伝えられる。
二十八日癸丑 太学生の弾劾、鳳翔府の陥落
- 太学生魏佑が黄潜善・汪伯彦の失政十カ条を弾劾する上書を行った。金の羅索が鳳翔府を陥とした。
二月二日~十九日 唐州・蔡州・陳州の相次ぐ陥落
- 二日、金軍が鄧州の民を北へ移送した。三日には唐州が陥落し、焼き討ちに遭った。十八日には蔡州が陥落し、知汝陽県丞郭瓉は朝服のまま金軍を罵り殺され、知軍州事閻忠孝は変装して脱出した。十九日には陳州が軍の内紛(将官岳景緩の離反)により陥落し、知軍事向子褎が殺害された。
宗沢、招降詔の文言に抗議し還京を重ねて訴える
- 東京留守宗沢は、招降の詔に「勤王の名を借りた聚冦」との文言があったことに強く抗議し、この一言が忠義の勤王軍の士気を損なうと訴えた。京師の治安・民心は既に平時同様に回復していること、河北・河東で今なお金に抵抗する義兵・山寨勢力が数十万に上ることを挙げ、車駕の還京こそが天下の民心を得る道であると繰り返し力説し、還京の詔さえ出されればただちに実行するよう求めた。
各地の義兵蜂起
- 冀徳・韓清が西京周辺で略奪していたが翟興に討たれた。信王(欽宗の弟)を推戴する馬政ら五馬山の義兵、鄧州で挙兵した譚兗、金軍撤退後の陝州を占拠して義軍を結集した李彦仙などが相次いで挙兵し、邵興(解州神稷山の義軍首領)も李彦仙に帰順して統領に任じられるなど、両河一帯で抗金勢力が拡大していった。