三朝北盟會編炎興下帙 建炎二年 1128年
正月二日丁亥 鄧州の陥落と劉汲の戦死
- 安撫使范致虚は金軍尼楚赫の来襲を知るや早々に逃走し、権安撫使劉汲が兵二千を率いて出撃したが敗れて戦死した。後年(乾道年間)、劉汲の孫・劉惇が祖父の忠節が長く顕彰されなかったことを訴える上奏を朝廷に提出し、紹興年間に至ってようやく「忠介」の諡が贈られた経緯が付記される。
九日甲午 鄧州の陥落
- 「遺史」は、包囲された鄧州で僉判李操が最後まで抗戦を主張したが、趙士習の「無益な犠牲は避けるべき」との説得を受け、ついに金軍に投降した経緯を伝える。この地には靖康末に四川からの物資・糧秣が集積されていたが、すべて金軍の手に渡った。
十一日丙申 均州の陥落
- 知均州楊彦明は、金からの帰順者(帰朝燕人)を組織して防備に当たらせていたが、金軍の来襲を前に力尽き、彦明とその一族は山中へ逃れ、燕人たちはやむなく金軍に合流して北へ去った。