三朝北盟會編炎興下帙 建炎元年 1127年

十一月一日丁亥朔 淮甸経路への曲赦、人材登用の詔

  • 車駕が応天府から淮甸に巡幸するにあたり、通過する応天府・宿州・亳州・楚州・泗州・揚州に恩赦が下された。
  • 四日、絶域に使いし万軍を率いうる人材を広く求める詔が発せられ、身分を問わず登聞検院への自薦を認めた。

九日乙未 王彦、太行山で金軍を撃退

  • 太行山に拠る王彦は、糧道が絶たれかけたところを兵を集めて奮戦し金軍を撃退した。「遺史」は、金の将が攻撃をためらう部下に対し、王彦の陣が鉄壁で容易に破れないと泣いて訴えられたという逸話を伝える。

十四日庚子 車駕、泗州へ、金軍の南進計画

  • 車駕が泗州に至った。金の尼堪(ニェンハン)は張邦昌廃立を知り、諸将に河南各方面への進撃を命じた(東路は鄂勒歓が山東へ、西路は尼堪自身が京西へ、別に羅索を陝西路先鋒都統として侵攻させる計画)。

二十二日~二十四日 密州の陥落と知州殺害

  • 知密州趙野は、山東の盗賊の跋扈と朝廷との連絡途絶を理由に城を捨てて逃れようとしたが、守衙の兵杜彦・李逵・呉順が反乱を起こして知州を自称し、趙野を捕らえて木驢に架けて処刑、首を市に晒すという凄惨な最期となった。

二十五日辛亥 河間府の陥落

  • 金軍が河間府を攻め、三重の月城による防戦もむなしく城内の失火に乗じて陥落、権府事の孫某・廉訪使李某ら守将が乱兵の中で死んだ。

二十七日癸丑 車駕、揚州に到着、西京の陥落

  • 車駕が揚州に駐蹕した。金の鄂勒歓は山東へ、尼堪は河陽から渡河して西京(洛陽)を再度陥落させ、別軍が漢水方面へ向かった。「節要」は、河陽守将建雄の軍が翟進の防備の隙を突かれて崩れ、西京の官吏が城を棄てて南走し、金が西京の大内に拠点を置いたことを記す。

十二月八日癸丑 鄭州の陥落

  • 金軍が鄭州に迫り、知軍州事董庠は宗沢の援軍が撃退されたのち城を棄てて逃れた。金軍はそのまま京西方面へ転進した。

十二日戊辰 金軍、龍門から渡河

  • 沿河安撫使曲方が酒色に耽り軍政を顧みなかったため、金軍の渡河に気づくのが遅れ、河東一帯の防衛線が崩壊した。

十九日甲戌 同州の陥落と鄭驤の殉節

  • 金軍が同州に迫ると、知州鄭驤は井戸に身を投げて殉節したが、寄居官の周良が民に推されてやむなく金へ投降し、城は保たれた。「遺史」は、鄭驤の死節が後に贈官・諡号(威愍のち忠介)を得た経緯と、実際には固守や抗戦の実態が乏しかったとの評も付記する。金の羅索(ロソ)は同州の防備の隙を突いて韓城県から結氷した黄河を渡り、長安方面へ進出した。

二十四日己卯 汝州の陥落、王曮の敗走

  • 金の尼楚赫(ニチュヘ)が汝州を陥とし、提点刑獄謝京は逃走した。河東制置使王曮は陝州を放棄して興元府へ逃れた。