三朝北盟會編炎興下帙 建炎元年 1127年

宗沢、車駕の還京を繰り返し上奏

  • 東京留守宗沢は七月の着任以来、京師の物価・治安が既に平時同様に回復していることを報告しつつ、張邦昌・耿南仲ら和議派の讒言に惑わされず車駕を京師に戻すべきと繰り返し上奏した。城壁・濠・楼櫓の修築、決勝戦車千二百両の製造と訓練、沿河十六県の連珠陣による防備体制など、着々と守りを固めている実情を訴え、還京により天下の民心が安んじ中興の実が上がると説いた。

十八日乙亥 李綱の罷免、陳東・欧陽徹の処刑

  • 李綱は、専断的な政務運営(募兵・買馬・献財の強行、詔令の勝手な改変、姻戚の庇護など)を黄潜善・汪伯彦に讒言され、尚書左僕射を罷免されて観文殿学士・杭州洞霄宮提挙に転じた。
  • 太学生の陳東・欧陽徹は、李綱の罷免と黄潜善・汪伯彦の登用に反対し、親征による二聖奪還を訴える上書を行ったが、切直な言辞が咎められ市中で斬られた。「中興姓氏録」は、陳東がかつて靖康初年に蔡京ら「六賊」の誅殺と李綱の再任を訴えて太学生数十万人の伏闕上書を主導し朝論を動かした実績を持つ人物であったことを伝え、その死を悼む声が街に満ちたと記す。

二十日丁丑 元祐太后、応天府を出発

  • 元祐皇太后が応天府を発ち南下した。中原の人々は車駕の江都行幸が現実のものとなったことを知り、京師の父老は涙して見送ったという。

宗沢、南都駐蹕(巡幸中止)を重ねて上奏

  • 宗沢は、巡幸の議が特定の進言者の私意によるものと疑い、開封が祖宗二百年の基業であり軽々に放棄すべきでないと訴えた。両河の民が朝廷への忠誠を保っている今こそ士気を鼓舞すべきであり、南への退避は敵に弱みを見せ天下の民心を失う愚策であると繰り返し諫めた。

二十八日乙酉 許翰の失脚

  • 李綱と親しかった尚書右丞許翰も、資政殿学士・杭州洞霄宮提挙に転じさせられた。「野記」はその経歴(靖康初に李綱の推薦で御史中丞となり蔡京・童貫らの弾劾に関わった経緯)を伝える。

九月五日壬辰 巡幸淮甸の決定

  • 御史中丞許景衡は金軍が東京に迫っているとの情報を根拠に車駕の淮甸巡幸を上奏し、裁可された。

京城陥落時の将吏の功罪検証を求める上奏

  • 臣僚は、都城陥落時に城を守った者と逃亡した者との賞罰を明確にし、今後の戒めとすべきと上奏し、宗沢に功罪の甚だしい者の名を調べさせることとなった。

七日甲午~二十一日戊申 揚州への巡幸準備と到着

  • 揚州を巡幸先と定め、城池修築・舟船準備・糧秣輸送の担当官が任じられた。十日には巡幸先での騒擾を厳に戒める詔が下され、地方に負担をかけない質素な移動を命じた。十五日には神主の奉遷の手配が定められ、二十一日には元祐太后・六宮が揚州に到着した。

二十二日 買馬政策の見直し、王彦の衛州回復

  • 産馬地でない東南諸州の買馬・献財の強要指示が撤回された。河北招撫都統制の王彦が渡河して金軍を破り、衛州・新郷県を回復した。この頃、張翼・白安民・岳飛らの部隊七千人余りが渡河に参加した。

二十七日甲寅~十月一日丁巳 淮甸巡幸の実行

  • 車駕は応天府を発ち淮甸(江都)への巡幸を開始し、宰執・侍従・禁旅・御営使司の五軍将佐が扈従した。劉光世が殿前都指揮使・御営使司提挙一行事務・都巡検使に任じられた。

二十九日乙酉 王彦、新郷県で敗れ太行山に拠る(八字軍の結成)

  • 王彦は金軍との激戦の末に包囲を突破したが兵は潰走し、太行山に拠って七百人を再結集した。将士は「赤心報国、誓殺仇人」の八字を顔に刺青して忠誠を誓い、以後傅選・孟徳・劉沢・焦文通らの義兵と合流して十九砦・十万余の勢力に拡大、両河一帯で金軍に対抗し「八字軍」として知られる抵抗運動の中核となった。