三朝北盟會編炎興下帙 建炎元年 1127年

十六日(承前)~十九日 元祐太后の出発と巡幸準備

  • 元祐太后が孟忠厚を提挙一行事務として京師を発った。都人は車駕の還御を望んでいただけに、太后の南京行きを知り涙を流したという。張俊が太后を護送し帯御器械に任じられた。
  • 十七日、李綱は「巡幸の策は関中が上、襄陽・鄧州が次、建康が下」とし、当面は襄陽・鄧州への駐蹕を提案(西は関中に接して募兵でき、北は京畿への援軍を送れ、南は巴蜀の財、東は江淮の穀を得られる要地とした)。朝廷は南陽への巡幸を議した。
  • 十八日、黄潜善を巡幸提挙一行事務とし、舟船・橋道・糧秣の準備担当官を任命。十九日には太廟の神主を巡幸に際して奉遷する手配が定められた。

二十七日乙卯 士大夫を戒める詔

  • 高宗は、二聖播遷の危機に際して節を守り死難した士大夫が少なく、多くが東南への退避や仮病を理由に職務を放棄している現状を厳しく戒め、今後は甚だしい者を極刑、それに次ぐ者を遠地流刑とする方針を示した。

八月一日戊午 宮中財物横領の摘発

  • 京師包囲中に王府・宗室・戚里の財物を私しほしいままにした周懿文・王及之・余大均・胡思・陳冲・洪芻・張卿材・李彛・夏承ら多数の官吏が、殿中侍御史黎確・馬伸の取り調べにより次々と摘発された。宮中の器物・金銀・酒食を私的に横領したり、女官と密通したり、罪状を偽って処罰を免れようとしたりした具体的な事例が列挙され、本来は極刑(棄市)に相当するとの法司の判断も出たが、高宗は「新政の初めから士大夫を殺すべきでない」との黄潜善・汪伯彦の進言を容れ、死一等を減じて除名・遠流とする処分に落ち着いた。余大均・陳冲・洪芻は沙門島への永久流刑、その他も遠地の別駕・編管などに処された。

二日己未 李綱、水軍設置を建議

  • 李綱は、南人は水戦に長じ北人は舟を苦手とすることから、沿河・淮・江の要地に戦船を造り水軍を募るべきと上奏し、裁可された。

三日庚申 楊惟忠、建武軍節度使に

  • 大元帥府都統制としての功により昇進。「野記」はその驍勇な経歴(高陽関路副総管から康王軍への合流、隆祐太后護衛時の潰走と再起、盗賊鎮圧の武功)を伝える。

五日壬戌 李綱・黄潜善、正副宰相に昇進

  • 李綱が尚書左僕射兼門下侍郎・御営使、黄潜善が尚書右僕射兼中書侍郎・御営副使に任じられた。制文はそれぞれ、国難に処する重責と器量を称える内容であった。これにより宰相が初めて自前の軍(御営使司)を統括する体制となった。

十四日辛未 傅亮の解任、招撫司・経制司をめぐる論争

  • 傅亮は兵力不足を理由に河東経制副使を解かれ行在へ召還された。
  • 権知大名府張益謙が河北招撫司の活動が河北の混乱を助長していると訴えたのに対し、李綱は「金軍の攻撃で流民が賊化しているのであり、招撫司の設置がその原因ではない」と反論した。
  • 河東経制使司の陝府設置・軍民招集の計画をめぐり、黄潜善は「進軍が遅滞している」と経制司を批判したが、李綱は「着任間もない段階での判断は時期尚早」と擁護した。結局、傅亮の河東経制副使は解任となった。