三朝北盟會編炎興下帙 建炎元年 1127年

五日癸亥 王時雍ら金への内通者十名の処罰

  • 臣僚の弾劾により、王時雍・徐秉哲・呉幵・莫儔・范瓊・胡思・王紹・王及之・顔博文(顔傳文)・余大均の十名が、二聖・皇族の連行を助け偽楚の擁立に加担した罪で処分された。王時雍は昭化軍節度使・高州安置、徐秉哲は昭化軍節度副使・梅州安置、呉幵は昭化軍節度使・永州安置、莫儔は寧遠軍節度副使・全州安置とされ、王紹は除名・容州編管、李擢は成州団練副使・柳州安置、顔博文は果州別駕・澧州安置、孫覿は海州団練副使・帰州安置とされた。
  • 孫覿は自らの経緯を弁明する上奏(辨受偽官等状)を提出し、靖康末から召還・任官・拘留・放還の詳細な日付を挙げて、偽官を受けたとされる嫌疑が事実誤認であると訴えた。また中書舎人への再任を辞退する上奏では、淵聖即位以来、蔡京・王黼一派への弾劾で恨みを買い、李綱への批判(用兵の拙さ)や太学生の暴動批判などで多方面から敵視されてきた経緯を述べ、自身の誅賞論が私怨によって偽官の嫌疑に絡めて取り沙汰されていると訴えた。

趙子崧、王時雍ら十人の断罪を求める奏劄

  • 陳州を守る趙子崧は、王時雍・徐秉哲・呉幵・莫儔・范瓊・胡思・王紹・王及之・顔傳文・余大均の十名を名指しし、二聖の連行・後宮の凌辱・宗室の捕縛・禁中財物の掠奪など具体的な悪事を列挙して厳刑を求めた。特に王時雍の金への追従、徐秉哲・余大均の宗族捜索の苛烈さ、呉幵・莫儔の脅迫的交渉、范瓊の皇后・東宮連行時の弾圧、胡思・顔博文らの偽楚讃美の文言などを詳述し、獄に付して真相を糾明すべきと訴えた。
  • 「趙子崧家伝」は、太祖六世の孫である子崧が、崇寧二年の進士第一であったこと、宣和年間に燕雲経略の危険性を早くから見抜き鄭居中・李邦彦に警鐘を鳴らしていたこと、王黼の増税策(出夫銭)の弊害を指摘していたことなど先見の明を伝える。京師陥落後は陳州を守り、大元帥府へ度重なる蠟書(密書)を送って情勢を報告し、援軍の派遣・王府の南京移転・張邦昌討伐などを進言し続け、半年にわたり孤城を守り抜いて諸道勤王軍との連絡路を確保した功があったと記す。