二日(承前) 李綱、国是を論ずる奏劄(和戦守の三策)
- 李綱は、和・戦・守は一体の理であり、守れねば戦えず、戦えねば和も保てないと説き、景徳の澶淵の盟は戦守の備えあっての和議であったが、靖康の変では守策も戦策も講じずに和議のみに頼り、勤王の師を止めてまで開城したことが破局を招いたと総括した。
- 高祖が太公を項羽の陣中に人質に取られながらも戦を緩めなかった故事、晋恵公が秦に捕らわれた際に呂郤が国内を固めて秦を屈させた故事を引き、二聖が金の陣中にある現状でも、和議に偏らず自ら備えを固めることこそ二聖を取り戻す道だと論じた。
- 越王勾践の臥薪嘗胆にはならうべきだが、卑屈な貢納で事に当たる道は取るべきでないとし、当面は和議を退けて防御に専念し、河北・河東に藩鎮を建て、沿河・江淮に城壁・水軍を整えて数年かけて国力を養い、しかる後に大挙して二聖を迎えるべきと説いた。高宗はこれを喜び中書省に遵守させた。
- この頃、金の尼堪(ニェンハン)は河東経由で雲中へ、斡里雅布(ワリブ)は河北経由で燕山へ帰還した。
三日辛酉 李綱、張邦昌の処断を急ぐよう奏上
- 李綱は先の十事の劄子のうち、僭逆(張邦昌の罪)と受偽命臣僚の処分の二件について早期の裁断を求めた。「伝信録」によれば、高宗が執政の間に異論があると告げると、李綱は張邦昌の僭窃の経緯(道君朝から要職にあり、淵聖即位後に宰相となって金に使いし、都城陥落後に自ら帝位に即いて三十余日にわたり実権を握り、勤王の師が集まって初めて奉迎に転じた)を詳述し、これを不問に付し王爵まで与えることの不当性を強く訴えた。
- 高宗が黄潜善・呂好問・汪伯彦を召して議論させたところ、黄潜善はなお擁護論を唱えたが李綱に論破され、呂好問も明確な結論を避け唐の徳宗と朱泚の故事を引いて曖昧な態度を取った。李綱は「自分を用いず邦昌を宰相にとどめるなら辞任も辞さない」と強く迫り、高宗は翌日改めて裁可すると応じた。
四日壬戌 張邦昌の処断
- 張邦昌は昭化軍節度副使・潭州安置に処された。臣僚の弾劾は、道君朝以来の重用にもかかわらず忠義を尽くさず、金に迎合して帝位を僭窃し三十余日にわたり南面して朝を受けたこと、金軍撤退後の書面工作で保身を図ったに過ぎないことを列挙し、厳刑を求めた。詔・制文は、脅迫による已むを得ぬ所業とみなし極刑は免じつつも官職を剥奪し配流とする旨を述べた。
- 「中興姓氏録」は張邦昌の経歴(元符三年進士、高麗使、宣和年間の左丞・中書侍郎、燕雲遠征への反対意見、靖康初の太宰就任、金軍陥落後の擁立経緯、王時雍らの強要による即位、金人による偽楚建国、退位後の太后擁立と高宗即位への恭順)を詳述し、崇寧年間に景州阜城県に「天子の気」があるとされ、後に邦昌・劉豫という二人の僭主が共に阜城県出身であったという因縁も記す。
- 「偽楚録」は、邦昌の僭位が三十三日に及んだこと、当初は畏怖しつつ振る舞い金への上表では聖旨を「面旨」、詔旨を「手書」と改めて僣越を隠し、寛恤の令で人心を慰め、太学生を厚遇して名声を得る一方、金の使者送迎では天子の儀礼をそのまま用い、退去後も靖康の年号を削り城の守備を固め諸路の勤王軍を阻もうとするなど、僭逆の実態は隠しようがなかったと評す。
- 「李綱建炎時政記」は、東京留守司による審理として、邦昌が福寧殿に入った際に宮女李氏が果実を献じて寵を得、養女の陳氏を邦昌の寝所に侍らせていたことが発覚し、李氏が処罰されたという後宮の醜聞を記す。
- 「秀水閒居録」は、邦昌が若い頃、高麗への使いの途上で海神から「後に侍郎にはなるが宰相の器ではない」と夢告げされたという逸話を伝え、「呉曽漫録」は、邦昌が汝州知事であった頃に些細な越権を厳しく戒めた話を、後にその党与が皮肉にも「開国の祥」として引き合いに出したという皮肉な逸話を記す。
- 「伝信録」は、受偽命臣僚の処分についての議論を記す。高宗は、都城陥落後に殉節した者が少なく、王及之(諸王を辱めた)や余大均(後宮嬪妃を我が物にした)のような不忠の徒がいたことを憂い、李若水・霍安国を除き殉節者が乏しかったことを嘆いた。金が趙氏廃絶と張邦昌擁立を図った際、呉幵・莫儔が使者として往来し「捷疾鬼」と渾名されたこと、王時雍・徐秉哲が皇族の捜索・連行を主導し、この四人が首魁とすべきと呂好問に諮った上で、それぞれ官を落とし配流とすることとされた。