五日(承前) 趙子崧、大元帥府への進軍・討伐を重ねて要請
- 趙子崧は李恭佐・元青ら脱出者の証言(張邦昌が「大楚皇帝」を称し江陵への遷都を企てているとの情報)を根拠に、大元帥府に対し速やかに南京へ進軍し号令を発するよう繰り返し上申した。范塤(范鎮の孫)・徐文忠らを使者として派遣し、傅亮を推挙してその軍才を認め統制に任じたことも報告した。
- 元祐皇后の冊立や太廟での礼が既に行われたとの情報を得て、張邦昌の逆状は明白であるとし、東明への進軍を提案。あわせて張邦昌の弟・邦基とその母への監視強化、宣撫使范訥の罷免、江寧府の防備強化、淮南の賊(閻謹)や荊南・頴蔡方面の賊(李孝忠ら)への対処、河北・河東の三屯策(旧知延康殿学士による献策で、六万の兵を京東・河中・青鄆の三方に分屯し金軍の再侵に備える案)を上申した。
- 重ねて王時雍ら十人の断罪を求める奏劄を出したが、これが忌避されて子崧自身は京口の守りに転じさせられ、趙万の反乱鎮圧で負傷しながらも守り抜いたものの、待罪の末に単州団練副使に左遷された。
諸将の召還と論功行賞
- 荆襄・関陝・江淮方面に将来の巡幸に備えるよう詔が下された。
- 李綱の建議により河北招撫使・河東経制使が置かれ、張所・傅亮(いずれも靖康末の失策で配流されていた)が赦されて召還された。
- 陳州・蔡州・襄陽府・汝州・漢陽軍・江陵府公安県などで防衛に功のあった趙子崧・閻孝忠・黄叔敖・趙子櫟・季彦卿・狄千秋らがそれぞれ官位を進められた。
- 王襄・趙野は、勤王義務を怠り私利を図ったとして重ねて散官安置の処分を受けた。
六日甲子 内降七事の手詔
- 高宗は、二聖が敵地に囚われ宗族が離散した苦難への痛惜を述べた上で、行在の将士への慰労、勤王負担を負った州県民への撫恤、重税の減免、悪法の改正、乱を機に賊化した潰兵への招撫、姦吏の摘発処罰、靖康期に忠言を理由に左遷された者の召還、有為の人材の登用という七項目の施策を布告した。
七日乙丑 殉節者の顕彰と偽官の処分
- 偽楚に協力しつつ防河の任にもあった李回は、朝奉大夫・秘書少監に落とされ分司南京・袁州安置となった。
- 金軍への抵抗を貫き没した李若水には特に諡が贈られ、金への降伏を拒んで死んだ劉韐には資政殿大学士・特進が追贈された。同様に節義を全うして没した譚世勣には延康殿学士、知懐州として孤城を守り抜いて死んだ霍安国にも延康殿学士がそれぞれ追贈され、それぞれの功績を称える制文が発せられた。