四月二十一日 大元帥、済州を出発
- 康王率いる大元帥府は済州を発した。汪伯彦「日暦」は、行軍の順序(先鋒・前軍・左軍・右軍・中軍・後軍の順)と、宿営地「新興店」の名を太宗の故事になぞらえて瑞祥とする逸話を伝える。陝西の劉光世は先に范致虚らの敗走に巻き込まれながらも軍を再編して駆けつけ、康王の信任を得て五軍都提挙に任じられた。
- 趙子崧は都城の士庶に対し、康王が節制する諸軍が推戴の意志を固めていることを布告した。
- 趙子崧は張邦昌へ「見危致命は人臣の常、速やかに位を退き衣服を改めて康王を迎えるべき」と厳しく糾弾する書を送り、王時雍・呂好問・徐秉哲・馮澥・李回・呉幵・莫儔にも「今なお過ちを改めねば天下の師に誅されよう」と警告する書を送った。
四月二十二日 大元帥、単州に至る/李邴ら勧進を上申
- 康王は単州に至り、何志同・趙子崧の軍と合流した。趙子崧は太后(元祐皇后)に速やかな詔の発布を、大元帥府には正位と大赦を重ねて求めた。李邴も長文の勧進状を提出し、「四方の潰兵や群盗が各地に割拠する前に、大王が摂行国事の体裁を取り速やかに号令すべき」と説いた。
四月二十三日 大元帥、虞城県に至る
- 西道総管王襄・副総管孫昭遠の軍が合流した。開封尹以下、父老・僧道・官員が行在に赴き勧進の表を奉じることが定められた。
四月二十四日 大元帥、南京に至る
- 南京は金軍の攻撃をたびたび退けており、朱勝非・趙野・范訥・王淵・韓世忠らの軍が集結し、城市は健在であった。
四月二十五日 張邦昌、百官を率いて出発/許份ら、揚州即位を提案
- 張邦昌以下百官は京師を発った。知揚州許份らは「京師は破壊が甚だしく人心も定まらない、江淮を扼する揚州で即位し兵糧を整えるべき」と別案を上申したが、太后は既に南京への進発を命じていた。康王は太祖廟(鴻慶宮)に参拝し慟哭し、群臣も皆哭した。
四月二十六日 張邦昌、南京で康王に拝謁
- 邦昌は南京の大元帥行府に赴き、康王の前で慟哭し叩頭して死を請うた。康王は賓客の礼をもって迎え、邦昌は囲城の顛末を語り、康王もともに涙した。
四月二十七日 綱運(物資輸送船団)が南京へ発つ
- 汴河を船団が連なって物資・宮嬪らを南京へ運んだ。汪伯彦・黄潜善・董耘らが南京鴻慶宮の提挙に任じられた。
四月二十八日 太学生ら南京で勧進の表を奉る/中山府での悲劇
- 国子祭酒董道は太学生を率いて南京に赴き勧進の表を奉じた。
- 中山府では、金軍が北狩中の太上皇を城下に伴い開城を促した際、提轄沙貞が「これは金の偽計」として矢を放ち安撫使陳某を殺害する騒動が起き、その子も巻き添えで殺された。以後、沙貞が独断で中山府を守ったが、後に金に降ることを強いられたという顛末が記される。