「靖康小録」にみる禍乱の由来
- 太祖・太宗以来百年の泰平は、熙寧・元豊期に姦臣が新法を口実に祖宗の良法を改変したことに始まり、崇寧・大観年間に蔡京が正人を排斥し、王黼らが後を継いで国政を腐敗させたと総括する。宣和五年、童貫・王黼が燕山の地を得ようと金と結んだことが靖康の禍の淵源であるとする。降将郭薬師の不穏な動きを大帥蔡靖が見抜き上奏したが、宰相李邦彦がこれを揉み消した経緯、童貫が大軍を放棄して逃げ帰った経緯も記される。
- 靖康改元後も宰相人事は迷走し、太学生の伏闕上書、言路の閉塞(「城門閉言路開、城門開言路閉」と評された)、李綱の建策が容れられなかったことなどが列挙される。
- 城陥落の経緯として、金軍が守兵の混乱を誘う策を用いたこと、欽宗が越王に譲位を申し出て拒まれた逸話、廃立に際し司馬朴が祖先(司馬光)の名誉を理由に固辞し、代わって張邦昌が擁立されたこと、梅執禮ら四人が金銀不足を理由に処刑された顛末が記される。
- 開封城陥落前後の天変地異(二十五日ごとの奇妙な符合)や、金軍の軍紀の厳しさ、逆に宋軍の将帥が親族・門生を偽って戦功を詐称する腐敗ぶりが批判的に描かれる。
「朱勝非勝水閒居録」にみる燕京攻略の先例
- かつて宋が金と結んで燕京の遼軍を攻めた際、郭薬師の先導にもかかわらず宋軍が統制を欠いて自壊した経緯を記し、靖康の京師包囲で金が用いた「城壁に登っても直ちに攻めず、無血で威圧して要求を通す」戦術は、この燕京攻略時の経験に基づくものであったと指摘する。
「丁特起孤臣泣血録拾遺」にみる太原・京師陥落の経緯
- 靖康元年、朝廷が李綱に太原救援の大軍を委ねながら政争のため機を逸し、太原が九月に陥落したことを「朝廷が半年もその重要性を悟らなかった」と厳しく批判する。金軍来襲後も和議に固執し遷都の議も退けられたこと、王雲の使者としての奮闘が呉敏との私怨で妨げられたこと、城陥落前後の天候の奇妙な一致(毎月二十五日に事変が集中したこと)などが記される。
「呉興沈良靖康遺録」にみる燕雲経略から張邦昌擁立までの全貌
- 宣和年間の燕山獲得策の失敗、郭薬師の降伏と重用、金の南下と河北諸郡の陥落、太学生陳東らの上書(王黼・童貫の誅殺要求)、欽宗の即位と倹約政治、二度目の金軍侵攻での何㮚・李若水の抵抗、城陥落後の廃立協議の経緯(司馬朴の固辞、張邦昌の擁立、册文の内容)、孫傅ら旧臣の処遇、囲城下の物価高騰と疫病の惨状までが通観される。