三朝北盟會編靖康中帙 靖康二年 1127年

四月十五日 大元帥府、邦昌僭位期間の詔令を無効化/李綱、勤王の檄を発す

  • 大元帥府は劄子で「三月七日以降、邦昌が僭称した中旨に基づく人事・命令はすべて無効とし、以後の公事は大元帥府の裁可を要する」と布告した。顔岐を大元帥府参議、康周望を王府記室とした。
  • 李綱は荊南の兵十万を率いて京師へ向かう旨を各地へ檄で伝えた。
  • 趙子崧は第二の勧進状で「猶予すれば奸計が生じる、速やかに進軍・即位すべき」と重ねて訴えた。孫覿ら宰執も大元帥の聴政を求める上状を提出した。

四月十六日 路允迪・范宗尹を奉迎使副に任命/南外宗正事、再度の勧進

  • 車駕(康王)の進発を請うため路允迪・范宗尹が奉迎使副に任じられ、儀礼の準備が礼部・太常寺で進められた。南外宗正事は再び「大王こそ天下の望むところ、名分にこだわり進まねば宗廟の危機を招く」と勧進の状を提出した。

四月十七日 南外宗正事、三度目の勧進/胡舜陟、詔の布告を求める

  • 南外宗正事は三度目の勧進状で「大王は至親・至尊・至徳・至功を兼ね備える、天下の望みはすでに定まっている」と訴えた。
  • 秦鳳路の种深は、回紇・諸国の首領が自弁で数十万の兵を率いて勤王に加わる意向を報告した。
  • 胡舜陟は「囲城以来半年、詔令が四方に届いていない、康王即位の事実を天下に布告すべき」と上奏した。趙子崧は、邦昌が四月初に発した文書(登極の赦の意を含む)を差し止め、康王の指示のみに従うよう命じたことを重ねて報告した。

四月十八日 開封府、副元帥の公文を掲示/諸方に金軍追撃を号令

  • 開封府は、金軍が講和を装いつつ二帝と皇族・妃嬪を北へ連行した経緯を糾弾し、河北・河東の諸州軍に橋梁を断ち金軍を挟撃するよう命じる副元帥の公文を掲示した。康王が父兄の恥に涙し、諸軍に追撃を厳命している様子も伝えられる。
  • 元祐皇后は馮澥・李回を通じて康王に即位を勧める書を送った。

四月十九日 汪藻起草の勧進の書、御史台の審査を経て承認/京師の再建着手

  • 汪藻が起草した書は御史台で「妥当」と認められ、三省へ回付された。百官の上表による勧進が重ねられた。宗室趙叔尚は青城に義兵募集の拠点を設けた。大元帥府は駐屯部隊の配置を定め、二十一日の済州出発を決定した。

四月二十日 趙子崧、三度目の勧進/軍の南京入城の部署を決定

  • 趙子崧は「大王が速やかに還都し大赦を布告すれば天下は定まる、猶予すれば各地の賊が勢いづく」と三度目の勧進状を提出した。
  • 先に派遣した観察使黄永錫が帰還し、邦昌の様子(璽の返還、太后の垂簾、勧進の経緯)を報告した。康王は「宗廟社稷が滅びずに済んだことを喜びつつも、恥を雪ぐまでは軽々しく大事を引き受けられない」と応じた。
  • 五軍の将士は二十一日に南京へ入城する行軍の部署(先鋒・前軍・左軍・中軍・右軍・後軍の各統制・副統制の配置)を定め、康王の裁可を得た。